2021年6月28日
「憐れみと哀れみ」マタイ連講[015]
聖書:マタイ5章1〜7節 「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」 「情けは人の為ならず」と言いますが、あわれみも然り。人のためになるだけではなくて、自分に返ってくるから大いにあわれみ深い人になりましょう、ということでしょうか。しかしこの聖言、少...
2021年6月20日
「どこまでも義を求めて」[マタイ連講014]
聖書 マタイ福音書5章1〜6節 飢え渇くことは決して悪いことではないと言われます。この世も時折、私たちに満足をしてしまってはいけない、ハングリー精神を持つようにと迫ります。主もまた私たちに「ステイ・ハングリー、空腹であり続けるように」と迫っておられるのでしょうか?...
2021年6月14日
「柔らかく和やかな幸い」[マタイ連講013]
聖書 マタイ5章1〜5節 私たちは自分自身のことを「柔和な人」だと意識したり、ましてや主張することをおこがましいと感じるかもしれません。しかし、イエスさまは山上の説教の三言目で群衆に向かって「柔和な者は幸いです」と語り掛けなさいました。今朝は与えられました時間、聖言を紐解き...
2021年6月6日
「悲しむ人々への慰め」[マタイ福音書連講012]
聖書:マタイ5章1〜4節 「悲しむ者は幸いです」 これは人が人として他の人に、特に悲しみの中にある人に決して容易に突きつけてはならないことばだと強く思うのです。たとい善意からあるとしても、このことばを何の但し書きもなく言い放つのは無神経だと受け止められかねません。しかしそれ...
2021年5月24日
「心の貧しい幸い」マタイ連講 [011]
聖書:マタイ福音書5章1〜3節 心の貧しい者は幸いですと主イエスさまは呼び掛けなさって、山上の説教は始まります。私たちは「心の貧しい者」と呼んで頂いているのです。しかし、それが何を意味しているのかを十分に悟るのは決して容易ではありません。とても幅広く意味を想像することができ...
2021年5月16日
「主イエスの御口が幸いを告げる」マタイ連講[010]
聖書:マタイ5:1〜12 主は御国の福音を告げなさり、大勢の群衆がその聖言に耳を傾け、不思議な癒しのみわざの恩恵に与り、加えて直接召されて付き従う人々も加わって、私たちの目の前には大きな人だかりがそれこそ砂ぼこりを立てるようにして、賑やかにイエスさまに付き従っています。主は...
2021年5月9日
「主イエスに従うこと」マタイ連講[009]
聖書:マタイ4章18〜25節 私たちの信仰に関心を向けてくださる方々にとりまして、また実際にこの信仰に基づいて日々を歩みますお互いにとりましてイエスさまに従う、という主題は核心に迫る話題だと思いますし、そうあるべきだと確信しています。主イエスが公に福音を宣べ伝え始めなさって...
2021年5月2日
「悔い改めへの招き」マタイ連講[008]
聖書:マタイ4章12〜17節 12節は新しい段落の始まりになりますが、主イエスさまのご生涯にとりましても一つの大きな区切りとなっています。ガリラヤに「退かれた」という表現も大切なところです。主イエスさまは悪魔からの直接の誘惑に勝利されて、まるでパワーアップをなさってこれから...
2021年4月27日
「試みと向き合う聖言」マタイ連講[007]
聖書 マタイ福音書4章1〜12節 主イエスさまが御働きの最初の段階で試みと向き合われたことは、私たちにとりまして意義深い事実です。試みには二通りあるように言われます。一つは魅力ある物事に誘われるような誘惑。今ひとつは耐え難い苦痛や重荷です。これらが聖書の中で「試み」と呼ばれ...
2021年4月20日
「わたしたちにふさわしいこと」マタイ連講[006]
聖書 マタイ3章7〜17節 福音書の中で、イエスさまの第一声としてどの聖言を取り上げるかはとても重要なことです。マルコは「時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣言されたイエスさまが紹介され、ルカもまた、第一声というような印象はあまりないのですが、ある...