「どこまでも義を求めて」[マタイ連講014]
聖書 マタイ福音書5章1〜6節
飢え渇くことは決して悪いことではないと言われます。この世も時折、私たちに満足をしてしまってはいけない、ハングリー精神を持つようにと迫ります。主もまた私たちに「ステイ・ハングリー、空腹であり続けるように」と迫っておられるのでしょうか?
今朝の語り掛けの鍵は「義に」という点にあります。つまり「飢え渇いている」ということ自体が「幸い」の源なのではなく「義に飢え渇いている」ことにイエスさまは私たちの思いを向けさせてくださっています。今朝はイエスさまが群衆に語られた義の世界にしばらく身を置くことに致しましょう。
1飢え渇く全ての者を迎えられた主
「飢え乾く」とは人にとって最大の欲求であり、致命的な欠乏の現れ、そして日々の生活の中で土台となる欲求です。人は「飢え渇こう」などと言って飢え乾くのではありません。必ず空腹は訪れ、乾きが生じます。そして飢え渇きは肉体的な現象にとどまりません。主がご自身につき従ってくる群衆を見渡しなさったとき、そこに様々な事柄に飢え乾く人々を見出しなさったのです。主イエスさまは彼らの飢え乾きをご覧になって、分け隔てなく皆を迎え入れなさり、彼らの求めに十分以上にお応えになられました。ですから、主のみからだである私たち教会もまた、門戸を大きく開いてあらゆる人々を教会にお迎えしています。いつでも門戸を開いて歓迎を致します。今は感染予防のためにそのことを十分にできずにいて、教会も教会なりの渇きを覚えています。でも、本来私たちはいつでもどなたでも迎え入れるのです。私たちも、そもそもそのように迎え入れられたお互いです。
2全ての飢え渇きを神の義に向けられた主
さて、飢え乾き付き従う群衆を分け隔てなくお迎えになりイエスさまは口を開かれこうお応えになったのです。「義に飢え乾く者は幸いです。」
このおことばは決して群衆の中からふさわしい飢え乾きと、そうではない飢え乾きを選別なさって、義でないものに飢え乾く人々を去らせなさるものではありません。ただ、イエスさまは飢える人々、乾く人々、求める人々に届くようにお応えになられたのです。主イエスは確かにあらゆる飢えと渇きに応答されたのです。そして主は人々の求めや必要に豊かにあまりある賜物と富をもってお応えになる。それがこのおことばなのです。飢え渇きに衰弱する人々にイエスさまは「義に対する飢え乾きを満たすことが幸いだ」と諭しておられるのです。「義」が何であるのか詳しい神学的な講釈は一切省かれています。「神さま、あなたの義を、正義を私の上に果たしてください」と求めれば十分なのです。主は私たちが求めている飢えや渇きが的を外しているなどとは仰せになりません。パンと水に飢え渇いているならば当然私たちはそう訴えるのです。そのときに神さまの正義を期待するように、「義に飢え渇く」幸いを説き明かしておられるのです。私たちの日常にあって訪れるあらゆる飢え渇きについて、イエスさまは「義に飢え渇く者は幸いです」と御声を掛けてくださいます。私たちがその御声に応答して神さまの正義を期待するならば、私たちは幸いなのです。何故ならば私たちの飢え渇きは満たされるからです。確実に満たされるからです。神さまによって満たされ、溢れるからです。
3 飢え渇きのすり替えではなく満たしを
私たちはまた、想像力が十分でないからでしょうか、イエスさまに義に飢え乾く者は幸いですと告げられますと、何やら私たちが求めている飢え渇きを取り上げられて他のものを差し出されるような錯覚に陥るかもしれません。しかし主はこの後、山上の説教の中でこのようにお話になります。
「自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」
主は私たちの飢えを摩り替えて異なるもので満たそうとされているのではありません。私たちが本当に飢え渇いているその本質に間違いなくお応えになり、満たしてくださるのです。
4 たましいの飢え渇きに鋭敏になれ
最後にもう一点。人のからだは比較的飢えや渇きに対して正直です。しかし人のたましいは必ずしもそうではありません。人のからだはたとい病を患っていても水分が不足すれば渇きを覚えますが、たましいは神との関係が不健全になっても渇きを覚えるとは限りません。むしろ聖言を読まなくなっても、礼拝を休んでも、恵みの手段が欠けても平気でいられてしまう。それだけにイエスさまは群衆に向けてお告げになられたのではないでしょうか。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちが満ち足りるからです。」たましいの渇きに鋭敏であるように。私たちの心のうちにこの聖言を深く刻ませて頂きましょう。風鈴のように、少しでも風が吹いたならば音がなるように、この聖言が思い起こされるように。祝福をお祈り致します。
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