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「罪の愚かさの顛末」マタイ連講083

聖 書:マタイ14章1〜16節


先週はイエスさまがご自身の郷里に戻られた場面をお読みしました。出来事の流れを追うと、この後13節に場面は移ります。イエスさまは舟に乗り、一人寂しいところで恐らく祈られたのです。ここでマタイは一つのエピソードを挿入します。イエスさまが郷里を舟でお去りになられた後、一人寂しいところに向かわれた理由が、今朝お読みしたエピソードなのです。


振り返ってみますと、イエスさまが公に福音を告げ知らせ始めなさるきっかけもまた、バプテスマのヨハネが捕らえられたという知らせを受けたタイミングでした。その後もイエスさまとバプテスマのヨハネの間では弟子たちが行き来している様子がありました。しかし今回は痛ましい報告が届けられたのです。


ここに登場するヘロデは、イエスさまが誕生されたときのヘロデ大王とは別人です。ヘロデ・アンティパスという名前で知られているガリラヤ地方の領主です。どちらも福音に対しては否定的な態度をとりました。ヘロデ大王はイエスさまを亡き者にしようと試み、領主の方も大変なことをやらかしたのです。それで今、恐怖と絶望に囚われた顔が描かれているのです。ヘロデの狼狽した顔は決して急な展開ではなく、先週の記事と繋がっています。イエスさまを信じることができなかった郷里の人々の「不信仰のゆえに」という58節のおことばの、その先に何が控えているのか、福音に信仰を働かせて応答しない先にあり得る現実を、マタイはここで私たちにちらと見せているのです。


私たちは比較的簡単に「神も仏もいない」と言います。あまりにも簡単に神さまを諦めてしまう。諦め、神さまなしでやっていこうと思えてしまう。この世界は神さまの恵みと慈愛、神さまの正義によるお支えなしには少しも保たれることができないほど、もろく壊れやすいものだということを忘れてしまっています。しかし私たちはダンテ『神曲』に描かれた地獄の門の碑文の文言、

「汝等ここに入るもの、一切の望みを棄てよ」に聞くべきでしょう。本当のところ、一切の望みを棄てることなど実はむしろ困難なのです。私たちは、簡単に神はいない、とか地獄だとか口走りますが、本当に神さまのいない世界を想像するのはむしろ難しいくらい、実のところ神さまの恵みに包まれているのです。そのことを踏まえた上で、マタイはここで領主ヘロデの顔を画面いっぱいに映し出して、ほんの少しの間ですが、イエスさまのいない世界の恐ろしさ、その歪みを私たちに描いているのだと読み取れます。地獄門の中を少し覗くようなエピソードなのです。全てが歪む世界です。


第一にイエスさまが恐ろしく歪んで見えてしまっています。バプテスマのヨハネの亡霊だと騒ぎ立てているのです。まるで「都市伝説」的な迷信です。イエスさまが不在の世界、神さまの恵みが失われた世界では、神の御姿であるイエスさまが歪んでしか見えなくなる。それだけではありません。領主ヘロデの思いも判断も歪んでしまっています。神の御心を告げるヨハネの声を退け、彼を殺そうと望みながらも、世間体が怖くて殺せなかったというのです。正しい判断を行動に移せないだけでなく、悪意に満ちた判断も行動に移せないほど歪んだヘロデの醜態が描かれています。先を読み進めますと、ありとあらゆることが歪んでしまっています。誕生祝いの席でヘロディアの娘が列席の人々に踊りを披露しますが、その報酬がまた歪んでいます。「求める物は何でも与える」とは詰まるところ何を与えたらよいのか分からなかったのです。しかもその娘もまた何を貰ったら良いのか分からず、母ヘロディアに尋ねますと母は寄りにもよってバプテスマのヨハネの首を本に載せて寄越すように言わせます。そして、法外なリクエスト自体も然ることながら、それを本当にやってのけるなど歪みの極みです。


私たちが生きている世界は、確かに歪んでいるところが多々あります。しかし、私たちは同時に神さまの恵みの中にまだ生かされています。まだまだ到底地獄を知らずに守られているのです。私たちは断じて希望を捨ててはなりません。私たちの前に今広がっているのは『地獄の門』ではありません。『救いに至る門』です。イエスさまはこう言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます」(ヨハネ10章10節)。イエスさまが私たちを救いへと、希望へと辿り着く門として大きく扉を開いてくださっています。


さて物語はもう少し続き、ヨハネの弟子たちが登場します。「彼らはイエスのところに言って報告した」のです。彼らの涙や怒り、不安も込められていたに違いないのです。イエスさまの下に行ける限り、私たちは絶望することはありません。そこに救いがあるのです。そしてイエスさまがその報告に耳を傾け、受け止めなさったところまでが事の顛末なのです。イエスさまは「それを聞くと…そこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。」イエスさまが寂しいところに一人で行かれるときには、大概祈り、執り成しておられるのです。


そしてこの祈りに続きますのは五千人の給食と呼ばれる驚くような奇跡です。領主ヘロデの歪み切った彼の誕生祝宴の対極に、これからイエスさまご自身が主催なさる五千人の宴が始まろうとしています。マタイは二つの宴を並べながら力強く私たちに呼び掛けるのです。どれほど私たちの世界が歪んでいても、絶望してはならないと。私たちは今、イエスさまの下に駆け寄ることが許されている。イエスさまに聞いて頂くことができる。イエスさまは私たちの祈りと訴えを一言も漏らさず聞き取りなさり、執り成してくださる。そして天の御国の豊かな宴に私たちを招き、そこで私たちの慰め、励まし、力づけ、養い、希望を与えてくださるのだ、と。

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