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「主がお招きになる祝宴」マタイ連講084

聖 書:マタイ14章13〜23節


今朝はとてもよく知られた出来事をご一緒に御読み致しました。4つの福音書全てに記録されていて、初代の教会にとっても大切な戒めだったはずです。今朝は神さまがマタイをとおして私たちに語ろうとしておられる御心を悟らせて頂きましょう。先週ご一緒に御読みしました領主ヘロデの歪みきった誕生日の祝宴と、今朝御読みしたイエスさまの主催された給食の出来事と一緒に並べて読み解くことで、より一層イエスさまのなさっているみわざの素晴らしさが浮き彫りにされることも期待をしているところです。


1飢え乾く群衆に囲まれる主イエス

事の発端はヨハネの弟子たちの報告でした。バプテスマのヨハネが殺害され、その弟子たちがイエスさまの下に報告に訪れます。イエスさまはその報告を受けて一人で寂しいところに向かわれた。ただ、あまり長い時間祈りに専念することは許されなかったご様子です。イエスさまを見出した群衆がすぐにイエスさまの後を追ってきたのです。イエスさまは彼らを深く慈しまれて、彼らの中の病人を癒されたとマタイは記しています。夕方になっても人々は解散しなかった様子が描かれていますから、イエスさまは病人を癒しなさっただけでなく、いつものように天の御国の福音をお告げになられたに違いないのです。群衆は癒しや励まし、赦しや慰めを求め、飢え渇いてイエスさまを追ってきたのです。そのことを象徴的に言い当てたのが弟子たちでした。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」

人々は今空腹と渇きを満たさなければいけないほどになっているのです。そして渇きが潤され、空腹が満たされるためにできることを今しなければいけないのです。実に思いやりのある提案を彼らはイエスさまに進言したのです。イエスさまの周りに集まる群衆の飢え渇きも然ることながら、マタイの福音書を受け取って読み上げている初代教会の兄弟姉妹たちの心の飢え渇きも重ねて見えるのです。そしてこの朝、イエスさまの御前に集まりました私たちの心とも重ねるように、私たちは問われています。私たちは一週間の歩みを終えて、様々な疲れや不安、ストレスや痛みを身に纏い、渇いて集っているのではないだろうか。群衆に自らを重ねるように主は招いておられるのです。


2. 群衆を留めなさる主イエス

けれどもこの景色は始まりに過ぎません。この景色が輝くのはその後です。町や村に、彼らの家に帰してやってくださいと求める弟子たちにイエスさまはこのようにお返事をなさいます。

「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」

イエスさまの御下に集まり、イエスさまに癒しを期待し、潤され満たされることを望む人々はイエスさまの下を去ってはならない。イエスさまは飢え渇く人々を、他の町や村に散らしなさることはなさらないのです。食べ物はここにある、そう断言なさるお方です。

「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい」とは、ですからイエスさまが弟子たちに給仕する仕事を丸投げなさっているのではありません。弟子たちがどれだけ訓練されたのか試しておられるのでもありません。群衆が満ち足りるのはあの村や町ではない。ここだ、と言われたのです。もちろん弟子たちにはこのおことばが実際にはどのように実現するのか見当もつかなかったでしょう。それで弟子たちはイエスさまに再び報告をするのです。「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません」。全く足りません。間に合いません。そんな彼らに主イエスは告げなさいます。「それを、ここに持って来なさい」。ここからはイエスさまが主催される宴なのです。


3. 飢え渇きを豊かに満たされる主イエス

パンと魚を引き受けなさったイエスさまは、ここから群衆の飢え渇きを豊かに満たしなさいます。「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい」と仰せられた主は、弟子たちの手に祝福されたパンと魚をお与えになり、彼らの手から群衆は豊かに食べる物を得たのです。イエスさまは飢え渇く人々を迎え入れ、ご自身の御手で満ち足らせてくださるお方なのです。

それからマタイはこのエピソードの締め括りに、「食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった」と書き記しています。そこにいた全ての人に豊かな恵みが行き渡ったのです。 余ったパンは十二のかごいっぱいに溢れたのです。五つのパンと二匹の魚で五千人をはるかに超える人々を満ち足らせたとすれば、十二のカゴに余ったパンでいったいどれだけの人々を満たせると思うか、という問い掛けかもしれません。


最後にもう一点、イエスさまがパンと魚を持って来なさいと弟子たちに指示を出されてからの一連の動きをおさらいしますと、人々をまず座らせなさったイエスさまは、魚とともにパンを取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして弟子たちにお与えになりました。この動作は最後の晩餐でイエスさまがなさったことときれいに重なります。イエスさまはご自身がいのちのパンとなられ、ご自身のいのちをもって私たちを完全に救い、神さまの祝福と恵みで満たしてくださるお方なのです。イエスさまの十字架、死と埋葬、そして三日目のよみがえりは、既に裂かれて差し出されている生けるパンなのです。私たちが手を差し出して受け取るならば、単純に信じて受け入れ、そのことを私にとっても事実だと認めながら歩み始めるならば、神さまの豊かさは全て私たちのものなのです。

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