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「雛を覆う雌鳥のつばさ」マタイ連講[119]




聖 書:マタイ福音書23章25〜39節


十字架を前になさってイエスさまはエルサレムで、再び弟子たちや群衆を見渡しながら福音を御語りになられました。先週はこの章に記されている7つの災いのうち前半の4つについて目を留めながらイエスさまの語り掛けに耳を傾けました。今朝は残りの三つについても取り上げ、さらに締め括りに語られる聖言に耳を傾けて、新しい一週に足を踏み入れたいと祈っております。

ここからイエスさまが告げなさる災いには、共通したイメージがあります。指先を「偽善の律法学者、パリサイ人」に向けなさり、5つ目の災いは杯や皿の外側と内側のイメージ(25節)、6つ目の災いは「白く塗られた墓」(27節)、さらに29節に7つ目の災い、記念碑や墓石が描かれています。

前半4つの災いは、宗教家たちの立ち振る舞いや言動が人々にもたらず災いを鋭く指差した宣告でした。前半の宣告で私たちの目に止まりましたのは、宗教家たちが見えていない、闇の中にいる案内人として描かれているところでした、後半に進んでイエスさまが彼らについて指摘なさったのは「偽善」です。


1 人の内側に満ちる偽善

後半三つのイメージはどれも人の目に見えるところは麗しく、整っています。杯と皿は、食器を洗うイメージで、食卓や儀式で使った食器を洗ってきれいにするときに、洗いやすい外側だけを洗って片付けようとしても、本当に汚れているのは食べ物や飲み物が入っていた内側で、面倒でも中を洗わないと汚れが内側にこびりついたままで食器棚に入ることになってしまう。イエスさまの例えは辛辣で、汚れどころではなく強欲と放縦が内側にこびりついている、と迫られ、綺麗にするのは内側だと諭されるのです。

白く塗られた墓の例えも同じことを語っています。モーセの律法の中できよいものと汚れたものの区別が様々な場面でなされています。その中で、動物や人の死体は汚れたものとみなされていました。ですから人の亡骸が埋葬されているお墓は、そこに遺体があることを人に知らせるために、敢えて白い顔料で外壁を塗り固めて目立つようにしたそうです。ここでも注目は、白く輝く外壁よりも、その中に埋まっている遺体や人骨。それが偽善を象徴しているのです。

それから記念碑や墓石、そこには先祖を想って立派な決意や志が刻まれています。しかし記念碑や石碑が本当のところ証言しているのは文言そのものよりも、記念碑を建てた当事者たちの生き様をそのまま踏襲して今に至る宗教家たちの変わらない本質だ、と主は諭されます。祖先の犯した過ちや罪を記念碑に刻むことで、自分たちがその子孫であることを公言し、時代の流れや世代の交代で内側の汚れは消えず、災いは人の内にあることを諭されたのです。

偽善とは漢字こそ偽りの善と書きますが、イエスさまは外見のことを責めておられるよりも、人の内側に溢れている強欲や放縦、汚れ、そして悪意、流血、殺戮が災いだとイエスさまはいよいよ迫りなさるのです。主はその人の内側に溢れる事柄をご覧になってくださるのです。それだから信頼できるのです。


2 神さまの語り掛けを拒む偽善

ここでイエスさまはこの「偽善」の本質が何かを明らかになさいます。しかも強烈なお言葉ではっきりとお示しになります。それが7つ目の災いに込められた宣告です。7つ目の災いは実に生臭いものです。墓石や記念碑の背後にあるのは流血と殺戮です。記念碑に刻まれる文字の裏にはこれまで流されてきた義人たち、預言者たち、主のことばを語った器たちの死骸が積み上がっています。偽善とは何か。神さまに遣わされた器たちを殺すこと。更に言えば神さまのみことばを語る人々を、いや神さまの聖言、御心を殺すこと。これが偽善の本質。災いの本質です。そして彼らはこれから人となってくださったことば、主イエスさまを殺すのです。


3 主の御忍耐で砕かれる偽善

さて主は「これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる」と仰せになり、偽善は宗教家たちの内側にだけ蔓延しているのではなく、この時代に染み渡り、災いはあらゆるところに降りかかっている現実をお見せになります。それでも、イエスさまの聖言は断罪を告げておられるのではありません。

37節から今一度、神さまのお言葉がエルサレムに響き渡ります。「わたしはめんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとした」今一度翼の下に入るように、とのお招きを思い起こさせてくださったのです。天の御国の扉は開いているから入るように。翼の下に入るように。

それでも彼らはもう一度、神さまのおことばを殺すのです。それで彼らは自ら見捨てられて廃れていく道を選び取るのです。「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。」イエスさまが心を痛めておられるのは、町の興亡のことではなく、人の滅び、人々に降りかかる災いです。

しかし、これもまたイエスさまの最後の一言ではないのです。イエスさまのメッセージはいつでも福音に辿り着きます。「今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(39節)。人が神のことばを殺し続ける中、それでもイエスさまは、彼らの口から「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言って神さまを讃える告白と讃美が溢れる日を待ち望んでおられるのです。人々がその内に溢れる災いに驚愕して、神さまに救いを求め、信仰を抱いて新しく災いではなく幸いの道を歩み出し、その口から神さまを讃える歌が溢れるときが来ることを、忍耐をもって待ち望んでおられるのです。心に主イエスさまをお迎えするときに、人は災いから幸いに変えられるのです。


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