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「天の御国は大きく拡大し」マタイ連講080

教会総会準備講壇

聖 書:マタイ13章31〜35節


今朝は先週お読み頂いた大きな段落の一部を読み返して頂きました。メインの喩えは良い麦と毒麦が蒔かれるお話でした。その譬え話を語られる中で、イエスさまは続けて2つほど短い譬え話を群衆に告げておられました。これら二つの譬え話も天の御国についての譬え話だというところで繋がっています。しかもどれも「種まき」が一つの共通したイメージになっています。今朝お読みしました二つの喩えも、一つ目はからし種を畑に蒔く話し、二つ目はいわゆる植物の種ではありませんが、「パン種」とはよく翻訳したもので、厳密にはイースト菌の話ですが、当時はまだイースト菌は発見されておらず、何か発酵させる種らしきものを小麦粉に混ぜると、膨らんで柔らかくなって食べやすくなることが知られていたそうです。現代人の私たちよりは、当時の群衆の方がからし種の喩えとパン種の喩えの共通点を容易に理解したのではないかと思うのです。


1極小から莫大へ

最初の譬え話は手短でありながら、要点を突いたイメージです。ただ、ここでイエスさまがちょっとこだわっておられるのは、今までの種まきの話では種は山ほどあったのですが、この喩えではからし種は単数形で語られているのです。つまり種を一粒取り上げて畑に蒔いた農夫を群衆にお見せになっているのです。これは風変わりな姿です。イエスさまがお手元に持っておられて群衆に見せようとなさってもほとんどの人には見えない、それだけ小さな粒です。ところがその種も畑に蒔かれて生長すれば、大きな木になる。空の鳥が来て、枝に巣を作るとなれば、サツキやツツジ程度の灌木ではなく、人が見上げるくらいの高さになり、枝もたくさん張って、葉っぱが生い茂って、外敵の目から隠れて安心をして巣を作って雛を育てることができる規模の立派な樹木でしょう。天の御国、神さまが治めてくださる世界は、その始まりは本当に些細なこと、取るに足らぬ出来事、だれも注目しないことかもしれない。けれどもそこで確かに種が蒔かれたならば、確実にからし種はいのちを豊かにして生長を遂げ、大いなる祝福をもたらすことになるのです。ここでわざわざ空の鳥がその恩恵に与るイメージを描いておられます。ちなみに先ほどのイエスさまのこだわりついでですが、からし種の数は一粒でしたけれども、ここに巣を作る鳥たちは複数形で描かれています。恩恵が及ぶ広さを分かり易く描いた譬え話です。


2隠れた種が全体をふくらませ

次の喩えも似通ったところがあります。小さな始まりが大きな終わりに辿り着くイメージは同じです。でも細かいところにいくつか違いがあります。一つにはからし種を蒔いたのは男の人ですが(日本語では「人」ですが、もとのギリシア語では男性です)、パン種の喩えでは「女の人」が登場します。これは別に男女平等を主張しているわけではなくて、女の人を描くことで、群衆が台所をイメージするように工夫された場面です。おうちの中で毎日見る光景です。

それから、パン種は小麦粉の中に混ぜますが、ここも少し言葉遣いに工夫がされているようで、直訳しますと、「小麦粉の中に隠す」という言い回しがされています。つまり小麦粉の中にパン種を混ぜるので、それが見えなくなってしまい、隠されてしまうというイメージです。私たちはそこにあるはずのものが見えませんと不安になります。しかし神さまが治めてくださる世界では、その種がどれだけ小さいのか、それどころ見えなくなることが問題になることはありません。パン種のように目にはまるで見えなくなってしまいましても、その力が沸々と湧くように働きかけてやがて全体をふくらませることになる。神さまが治めてくださる世界では物事がそのように実現していくのです。

ただ、小麦粉の分量が3サトンとなっているのは不自然です。計算すると大体39リットル、重量に換算して20キログラムくらい。それをさらにパン種で膨らませるのですから、相当の分量になります。食パンを作ると1斤に使う小麦粉が大体250グラムだそうですから、大体80斤。6枚切りにしたら480枚の食パンです。女の人がキッチンでパン種を取って混ぜる小麦粉の分量は計量カップ2杯分程度です。その分量の小麦粉に混ざって見えなくなったパン種はちゃんと仕事をして十分に膨れ上がり、家族が満腹になるくらいのパンが焼けるのです。それが、何か尋常でない事情が生じて、それこそ20キログラムの小麦粉を使わなければいけなくなっても、パン種は同じようにきちんとその力を発揮して小麦粉全体をきちんと膨らませてくれる。ましてや神さまが治めてくださる世界は、たとえ目には見えなくても、きちんと全体に行き渡るように拡大を見せるから、期待をするように信頼をしてその中に保たれるように、イエスさまは招いてくださっているのです。


3詩篇が歌う

二つの譬え話を受けて、マタイは詩篇78篇2節を引用します。譬え話を語りなさるのは真理を隠して分かりにくくするためではなく、分からなくなっていいることを解き明かすためなのだ、と告げるのです。神さまはご自身を、そしてご自身の御思いを私たちから隠そうとはなさいません。この世界が創られたそのときから、神さまは一貫して私たちを幸いへと導く福音を見えなくなさろうとはなさらなかったのです。それがどれほど小さな種に喩えられるものであったとしても、きっと樹木のように大きく生長して、数々の鳥を宿らせる大木へと拡大しますし、たとえそれが目に見えなくなったとしても、確かにその力を働かせてどれだけ多い分量でも全体に行き渡って膨らませるから、期待をするように、期待をして神の御国に入り、その中にとどまるように、招いておられるのです。

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