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「外なるものに汚されず」マタイ連講[087]

聖 書:マタイ福音書15章10〜20節


先週私たちが学びましたのは、神のことば、神さまの御思いに私たちが絶えず近くにあることの尊さでしたが、イエスさまは再び宗教指導者たちが持ち込んできた「手洗いの言い伝え」に話題をお戻しになりました。イエスさまは群衆を呼び寄せなさって、手洗いの儀式そのものにも致命的な誤りがあると正しなさいました。「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」この聖言は弟子たちにも理解しづらい真理であったようで、ペテロが改めてイエスさまに近寄ってもっと詳しく教えてください、と願っています。

私たちもまた実のところ、多少なりとも弟子たちの混乱、あるいはパリサイ人たちの発想に多少なりとも同調できるのではないか、と感じるのです。私たちが生まれ育った文化にもこれと似た考え方は溢れていて、神社仏閣に入る前に水で口をゆすいだり、それこそ手を洗う場所があったりしますし、玄関に盛り塩をしたりして、災いが入ってこないようにする心情が随分あります。邪悪な犯罪が報道されますと、犯罪者は外から様々な悪影響を受けてその犯罪に至るという考え方が報じられます。外から邪悪が人の中に入らないようにするべきだ、という考え方です。ここ数年コロナ禍におります私たちはウイルスが外から体内に入らないようにお互い気をつけていますから、この感覚を尚更身近に感じるのではないかと思うのです。ウイルスや花粉から身を守るという点であれば当然外から入り込まないように、という対策は必要なことでしょう。

しかし、同じことが人の罪や汚れにも言えることなのだろうか、ということが問われています。当時の宗教家たちは言い伝えを守る中で、明確に罪や汚れはウイルスのように外から侵入して人を汚すのだ、というメッセージを発信していたのです。イエスさまはこの思想に厳しく異を唱えなさいます。しかも「神の戒めを破る」とまで仰せになられたのです。


1神に植えられた木

「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。」

主イエスのお答えの始点は、私たちは皆父なる神さまが福音の畑に、よく耕された地に植えられた、という恵みです。イザヤ書には何箇所か、神さまがご自身の民をご自身の植木に例えなさっている聖言があります(イザヤ60.21、61.3、5.7)。詩篇の冒頭も幸いな人を「流れのほとりに植えられた木」と例えています。私たちは流れのほとりに植えられた木のように、また「正義の樫の木、栄光を現す主の植木」と呼ばれるように、一人一人父なる神さまが植えてくださったお互いなのです。神のことばによって養われ、神の戒めによって生かされるお互いなのです。しかし、神さまが植えなかった木があって、それは根こそぎに、つまり滅びてしまう。「わたしの天の父が植えなかった木」とは神の戒めを破ること、神のことばを無にしてしまうこと、そして誤ちを示されても拒むこと。

弟子たちはイエスさまにそのような宗教家のことを報告します。イエスさまは「彼らのことは放っておきなさい」と仰せになりますが、これは必ずしも彼らを滅びるままに放置しておけ、と見捨てられたのではありません。弟子たちが彼らのために、まして天の父なる神さまに代わって何かをすることはできないのです。宗教家たちが神さまに植えられた木として良い地に保たれるのか、それとも植えなかった木として根こそぎにされるのか、彼ら自身が決断をしなければならないのです。彼らが耳を傾けて、植えられたその場所にとどまるならば、多くの実を結ぶことができるのです。そして外から何が入り込もうと、如何なる汚れや邪悪にも汚されることなく、保たれるのです。

2悪の源


さて、イエスさまがお答えくださったもう一つの真理は、悪の源です。悪は人の心から出て来る、という現実です。人はいつか、心の問題と向き合わなければならないのです。確かに生まれ育った環境が人に及ぼす影響は少なくはないでしょう。けれども神さまの御前にあって人を汚すものはいつでもその人のうちから、その人の心から出て来るものだ、とイエスさまは断言なさるのです。

この真実を受け入れることは決して容易なことではありません。証拠に宗教家たちはこぞって腹を立て、弟子たちも疑問を呈しています。私たちもまた、日々身の回りで起こる現実を観察すると、外から汚れや悪が入って来る、と言われる方が分かりやすい。いや、正直にいうとその方が都合良いのです。外から入ってくるならば、その悪なり汚れなりに、責任はないのです。しかし私のうちから出て来たものならば、すべての咎めは私にあるのです。そして、人はどうしても自らのうちからこぼれ出る汚れや悪に対して責任を担い切れないのです。償いきれないのです。絶望的な現実です。


それでも、イエスさまは包み隠さず、そして聞く者が悟ることができるように、繰り返して汚れは人の心から出る、と宣告されたのです。それはこの宣告が、イエスさまがひたすら語り、お示しになって来られた救いと背中合わせになっているからなのです。福音はあなたの心に届く福音なのです。その救いが偽りでないことを私たちはこれから思い知らされます。イエスさまはご自身のいのちを差し出して、開かれた救いの道が心に届くことをお示しになります。

私たちは今ちょうど受難節を過ごしております。イエスさまの十字架の御苦しみと死によって、私たちの罪、洗い流さなければならない汚れを、私たちに代わって担ってくださりそのよみがえりによってもたらされた死に対する勝利を私たちのものとしてくださった。洗わない手で食べることで人は汚れない。イエスさまの救いが私たちの心に触れて変えられて、私たちの心から汚れではなく、生ける水の川が流れ出るようになるのです。



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