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「郷里でも天を見上げて」マタイ連講082

総員伝道礼拝

聖 書:マタイ福音書13章53〜58節


イエスさまは一通り様々な角度から天の御国について譬え話を語りながら説き明かしなさり、その締め括りに弟子たちはイエスさまのお問い掛けに対して「イエスさまの教えてくださったこと、皆分かりました」と返事をします。イエスさまはそのような弟子たちの応答をお喜びになり、彼らのことを「天の御国の学者」だとよ呼びになって、彼らが蔵の中から財や宝を取り出しては人々を富ませる一家の主人、蔵を構えるくらいの地主に譬えなさったのです。

今朝は、そのようなイエスさまの喜びと期待に溢れた空気が漂う中、カペナウムを立ち去りなさって、その空気に包まれたまま「ご自分の郷里」に行かれたところから読み始めました。恐らく安息日に会堂司から依頼されて聖書をお開きになって説き明かされたのです。集まった人々のことばを聞くと、イエスさまが「こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と首を傾げていますから、イエスさまはお話をなさっただけでなく、人々の病を癒したりもなさったご様子です。それでナザレの人々もまた驚いたのです。

ところがその驚きは、イエスさまに対する信頼だとか、天の御国への希望とはつながらず、全く反対の方向に向いてしまいます。「こうして彼ら(故郷の人々)はイエスにつまずいた。」その結果「彼ら(郷里の人々)の不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった」のです。そして私たちはこの結末を軽々しく読み流してしまってはなりません。


この記録が私たちに説き明かしている最大のメッセージは、人々がどのようにして福音に、イエスさまに躓くのか、その生々しい様子です。イエスさまが一体どこから教えの豊かな知恵や、奇跡や癒しの力が来るのか、その源について問い掛けることはとても大切です。「求めなさい。そうすれば与えられます。」と招かれた通りです。しかし、郷里の人々はイエスさまの説き明かされる知恵やお見せになる力の源を、自分たちの世界の中に見出そうとしてしまったのです。神さまの治めなさる次元の福音なのです。神さまがすべての要におられることを踏まえての豊かな世界をイエスさまは私たちに説き明かしておられるのです。それなのですが、郷里の人々はイエスさまの御教えやみわざの源を、地元に求めようと尋ね合ったのです。そして見出すことが出来なかったのです。見出すことができなかったので、彼らは尋ね合うことを止めたのです。「こうして彼らはイエスにつまずいた」のです。躓きは、彼らがイエスさまの福音について訪ねることをやめてしまったときに彼らを捉えてしまったのです。


これはナザレの町独特の問題ではありません。マタイは一度もナザレの町を特定せず、一貫して「郷里」と呼ぶに留めています。郷里ならば、だれにでもある自分の土台、自分のルーツ。自分が生まれ育った土壌です。そしてその価値観も世界観も分かち合える家族や仲間たちがいるところ、それが郷里です。しかし、イエスさまの御教えやみわざを本当に分かろうとするならば、いやイエスさまご自身を知りたいと思うならば、郷里の世界観では到底間に合わないのです。イエスさまの本当のお姿を知ろうとするのならば、人は自らの郷里に目を向けるのではなく、天の御国を見上げることが肝心要なのです。イエスさまが一貫して語って来られたことはそれだけです。郷里でも同じことをお話しになられ、人々を癒し、赦し、救われたのです。人々は本当に罪を赦され、汚れを洗われ、闇から救い出される。悲しみや痛みは慰められ、癒される。恐れや不安は取り除かれ、確かな道を進むことができる。怒りや傲慢は溶かされ、平安と喜びが与えられる。100倍の実を結ぶような歩みが備えられている。倉に納めるほどの収穫を得るような豊かな人生が備えられている。いったいどこからそのような話が伝わってくるのだろうか。イエスさまは天の御国を仰ぐように、天の御父である神さまを仰ぎ見るように招いておられるのです。神さまの豊かさに期待をするように、神さまの知恵と御力に信頼をするように。そうするならば、彼らに、私たちに告げ知らされる福音の豊かさは、途端に現実にあり得る世界として成り立つのです。私たちのうちに生み出されるのです。


最後にイエスさまが仰せになられたおことばに耳を傾けましょう。

「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」このおことばはこれまで読んで参りましたように、決して預言者たちのプライバシーを知られている郷里では素直に預言者の話を聞いてくれない、というお話ではありません。直訳をしますと、「預言者は、敬われないなどということはないのです、自らの郷里や家以外のところでは。」回りくどくなるのですが切り詰めて言うと、イエスさまは、預言者は敬われません、と嘆いておられるのではありません。預言者は敬われないことなどありません、と断言なさっているのです。ただし、郷里や家だとその限りではない現実を戒めておられるのです。郷里に象徴されるように、自分たちの間だけで共有される価値観や世界観を握り続け、そのようにこだわりを手放せない間は、神さまからのメッセージを受け取ることは難しいと、諭されたのです。


思い切って自分の物差しを手放して、天を仰ぐように、天の御父が慈しみをもって私たちを救い、いのちを与え、豊かに生かそうとなさっていることを物差しとして手に取るように、そのようにして福音に耳を傾け、受け入れるようにイエスさまはお招きになっておられるのです。そうすることを「信仰」とお呼びになり、多くのみわざを以って報いてくださるのです。信仰さえ働かせるならばナザレの人々は言うまでもなく、だれでも多くのみわざを拝することが許され、いや自ら多くの奇跡に巻き込まれる恵みに与るのです。

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