top of page

「御国の弟子たちへの期待」マタイ連講081

教会総会講壇

聖書箇所:マタイ13章44〜52節


今朝の段落でイエスさまは一気に4つの譬え話を続け様にお話くださいました。44節に第一の喩え「畑に隠された宝」、45〜46節に第二の喩え「良質の真珠を探す商人」、そして47〜48節に第三の喩え「魚を集める網」に天の御国が喩えられていて、それら三つはバラバラなイメージではなく、むしろ一つの絵の中に描かれた3つのモチーフのような語りです。その後にまた、イエスさまの短い解説があって、最後にイエスさまはまるで学校の先生のように、弟子たちに「みな分かりましたか」と御問いになり、弟子たちは良い子のように「はい」と返事をします。その後でイエスさまは最後に、これまでの全体を振り返りながら、そしてこの先を指差しながらもう一つ短い譬え話を語りなさいます。今朝は教会総会を開き、私たちのこれまでの歩みを振り返り、これからを見据えるときを持ちました。その総括とも重なるのではないでしょうか。

44節の「畑に隠された宝」では、天の御国がどれほど価値高いものであるのか、今一度強調しています。からし種のように小さく、パン種のように見えなくなってしまう、毒麦と見分けづらいかもしれません。でも天の御国は、隠されていたとしても、価値を知っている人ならば持ち物を全て売り払ってでも手に入れるために畑ごと買い取ってしまうくらい、手にした人に喜びを齎す間違いのない宝なのです。

45節では、今度はその宝と良質な真珠と重ねて次の譬え話をお話しになられます。この例えでは良質の真珠ではなく、その真珠を探している商人が天の御国と重ねられています。厳密に言えば、その商人が真珠を見つけた場面と、天の御国を見出す経験を重ねているのです。この商人も農夫と同様に持ち物を全て売り払って、高価な真珠を手に入れるのです。その真珠を見出したことをどれだけ尊ぶのかが問われています。天の御国の素晴らしさに触れたときに、全てを売り払ってでも手に入れたい、そのように値積もるのが御国の弟子なのです。

三つ目の喩えでは(47〜48節)、天の御国は漁師が海に投げ入れる網に喩えられています。厳密に言えばこの網であらゆる魚が引き上げられるときに何が起こるか、ということと天の御国で起こることとが重ねられています。良いものは入れ物に移しますが、悪いもの(食べられないもの)は外に投げ捨てる。これも新しいお話しではなく、例えば毒麦と良い麦の譬え話と共通する教訓があります。敢えて強調点の違いがあるとすれば、毒麦の喩えの方では、良い麦が大事に倉に納められるという結末(解説でも「正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」と大切にされている)であるのに対して、漁師が海に投げた網の喩えでは、どちらかというと、価値のない魚は惜しげなく手放す、というところにあります。そして、決してそうなってはいけないというイエスさまの御思いが繰り返されています。

天の御国、神さまの納めなさる世界に触れたならば、神さまの恵みを経験したならば、それを畑に隠された宝のように、良質の真珠のように、美味しいのどくろのように尊びなさい。喜びなさい。そして何よりも神さまの治めてくださる世界を求め、期待し、探し、見出しなさい。他のものに気をとられてはならない。主は私たちを招いておられます。

もう一つ最後に語られた譬え話はイエスさまにとりましても締め括りの喩えです。これだけは「天の御国」の喩えというよりは、弟子たちを喩えておられるのです。しかも弟子たちのことを「学者」とお呼びになっておられます。イエスさまは七つもの譬え話を語りなさり、そのいくつかについては解説までなさって、それで弟子たちに「これらのことがみな分かりましたか」と御問いになられたのです。弟子たちはまるでクラスの生徒たちのように「はい」と返事をしたのです。この返事をイエスさまは期待しておられたのです。

弟子たちが「はい」と返事をしたのを、群衆に紛れて聞いた宗教家たち、律法学者たちは、そしてこの福音書を読む私たちも、ともすると彼らを冷めた目で見ているかもしれません。しかし、イエスさまは違うのです。そのような彼らをご覧になって彼らを「天の御国の弟子となった学者」とお呼びになって御喜びになるのです。「学者」と言われていますが、これは今まで何ども登場した「律法学者」のことです。御国の福音を受け入れた弟子たちを学者と呼ばれるのは彼らがこれから学者に求められる働き、福音を教えることを期待なさったからです。自分たちが受け入れたことを伝え、証詞するのです。

倉の中に納められているものにどのような価値があるのかきちんと弁えている一家の主人と、そのような品物について無頓着な主人とでは、倉の中のものが藻屑と消えるか、ますます有効に価値を高めるか大きく変わってしまいます。学者とは価値を弁えている主人のようです。彼は新しい物も古いものもその価値や用途をきちんと弁えて取り出すのです。「新しい皮袋にいれる新しいぶどう酒」も一点一画も変更されないモーセの律法もイエスさま上手に、適切に、まるで学者たちがその子弟を教え諭すように、取り出す弟子たちのイメージが描かれています。イエスさまは弟子たちのこれからに期待をしておられるのです。この福音書の最後にイエスさまが弟子たちに「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい…わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」学者の仕事をしなさい、とイエスさまは一貫して弟子たちに期待をなさっているのです。

Featured Posts
Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
  • Google Classic
bottom of page