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「まことの礼拝」

聖書:ヨハネ4章19〜26節

今年は元旦が聖日でしたので、第二礼拝に年頭礼拝を守りました!今年の標語聖句に耳を傾けました。この年私たちに語られている聖言はヨハネの4章24節の聖言です。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

これは礼拝への招きの聖言です。そしてこの御招きは私たちが何者であるのかというところまでさかのぼる主題です。私たちはいの一番に「礼拝者」だという弁えをもたらす出来事です。

スカルというサマリヤの町で主イエスはこの女性から飲み水を求めます。話題はすぐに「生ける水」に移り、しばらく会話が噛み合いません。さらに話題はこの女性の男性遍歴に及びます。きっとこの女性は誰にも知られたくないと願っていた事柄を主イエスは見事に言い当ててしまわれるのです。それで彼女は主イエスが特別な人物だと直感し、今朝御読みした告白にいたるのです。

「先生。あなたは預言者だと思います。」

そして彼女は預言者ならば教えてくれるだろうと考えて新たに話題を持ち出します。それが「礼拝」でした。礼拝には人それぞれに、また各々の信仰共同体にそれなりのこだわりがあります。どこで礼拝するのか、建物は?礼拝の式次第は?どのような賛美歌を歌い、誰が司会をするのか。そしてどれが「本物」なのか?サマリヤ人とユダヤ人の間にはそのようなこだわりに違いがあって、彼女はそのことをユダヤ人の預言者に問いかけたのです。主イエスは彼女に返答をなさいます。そのお返事が私たちに今年与えられている聖言です。鍵は「知る」ということ。サマリヤ人とユダヤ人の違いは知っているか知らないか、だけです。優劣が問われているのでもなければ、是非が問われているのでもありません。あなたがたには知らないことがある。「本物」の礼拝を捧げるにあたって礼拝者が知るべきことを主は諭されました。

第一に、神が霊であられる事実です。神が霊であられる、とは神様が亡霊やお化けのような得体のしれない存在だから、人が幽霊に怯えるように神を畏れなければならないということではありません。神が霊であられる、とは神様が私たち造られた存在とは全く異なるお方だ、ということです。ですから、この女性が案じているような、場所や建物、物品や人々の資格やら立場はこだわりの軸にはないのです。まずは、私たちが礼拝するお方がこの世界を造られ、全てのものにいのちを賜り、その命を豊かに保たれるお方、私たちと異なる霊なるお方だという事実にこだわりを持つことです。このお方が霊であられるということが何を意味しているのかをこの年探らせて頂きましょう。教えて頂きましょう。

第二に、「霊とまことによって」という世界を知らせて頂かなければなりません。膨大な言葉で紐解いても足りない内容ですが、これらは二つの別個の事柄ではありません。どちらも人の内面を指しているというところが鍵です。人の霊も、またまことも人の内側にあって人のことばと行いを左右するものです。神が霊であられることを踏まえる時に、人が礼拝をささげるとき大切なのは、その礼拝が人の内側から込み上げてくる営みであること、そしてその込み上げているものが真実であること。この世界を追い求めましょう。この探求は決して無駄骨ではありません。実らずに終わることはありません。なぜならば「父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」神様ご自身が望まれている種類の礼拝に私たちは招かれています。神様は間違いなくこの探求に喜んで報いてくださいます。多くの実を結ばせていただこうではありませんか。

そして今一つ、真理を知らせてくださるお方を知るということです。神が霊であられること、霊とまことによる礼拝、真の礼拝者について諭してくださるお方はどなたか。この女性は「キリストと呼ばれるメシヤ」に期待をしています。訳せばどちらも「救い主」という意味です。イエスさまはこの「知らせる方」についてこう仰っています。「このわたしがそれです。」わたしがあなたの待望んでいる「知らせる者」だ。そしてそのわたしは今、「あなたと話している」。イエスさまは今年この聖言を私たちに与えてくださり、私たちに告げておられるのです。今年わたしはあなたと話そう。礼拝の素晴らしさ、礼拝者の在り方、私たちの歩み方、「いっさいのことを私たちに知らせてくださる」私たちも心から期待して歩み出そうではありませんか。

この女性はこの後、自分の家に戻り、近所中にイエスさまのことを知らせます。そして知らされた人々はイエスさまの方にやって来て、自分たちの目と耳でイエスさまと出会います。そして彼らもまた「自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」と告白するに至ったのです。真の礼拝者の存在が周りの人々を巻き込んでイエスさまと出会わせ、主の救いが彼らにまで及んでいる幸いをこの出来事に私たちは見出すのです。今年共に願おうではありませんか。「知る」ことを。霊とまことによって礼拝を献げること、真の礼拝者となること、そして何よりも、真理を「知らせるお方」イエスさまをより近く、深く知らせて頂きましょう。他でもない、この方を私たちは礼拝しているのですから。

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