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「いのちある神のことば」マタイ連講[086]

総員伝道礼拝

聖 書:マタイ15章1〜11節


私たちクリスチャンは神のことばと生きた結びつきを持ち、深めることを期待しながら礼拝に連なっています。これはクリスチャン生活の特徴の一つです。神のことばは、それこそ「パンを食べるときの手洗い」に象徴されるように日常の風景に溶け込むような場面に生かされるのです。神のことばは私たちの日常に根深くいのちを与え、そのいのちを豊かにして私たちが力強く生き、葉を生い茂らせ、実をたわわに実らせるのです。

今朝はイエスさまのところにパリサイ人たちや律法学者たちがエルサレムからやって来た出来事を追います。彼らはユダヤ教の指導者たちで、ユダヤ教の本部から送り込まれてきたなのです。イエスさまの弟子たちが食事をするときに手を洗わないのはどうしてですか、と詰問します。「長老たちの言い伝え」どおりに、宗教的な儀式としての手洗いです。食事をするときに、食べ物と一緒に世の中の汚れや、罪深いものを一緒に摂り入れてしまうことがないように、という思いが込められた戒めでした。ユダヤ人ならば、皆で守る了解があったのにイエスさまの弟子たちはそれを無視している、という苦言でした。

ところがイエスさまは存外厳しくお返事になられたのです。イエスさまの不興を被りましたのは2点、「手を洗わない」というクレームと「言い伝えを破る」という苦言でした。これら二つについてイエスさまは却って宗教家たちにこそ非があると厳しく責めなさいます。今朝はそのうちの後者「言い伝えを破る」ということについて思い巡らします。教えや戒め、そして神のことばを守る、あるいは破るということについてです。イエスさまの弟子たちは「掟破り」の廉で罪に問われたのですが、イエスさまはその罪状をそのまま彼らに突き返しなさったのです。しかも彼らは神のおきて、神さまの戒めを破っていると責めなさったのです。

イエスさまはここで『父と母を敬え』というモーセの十戒を引用なさいます。それに加えて『父や母をののしる者は必ず殺されなければならない』という補足のおきてを添えての引用です。ところが宗教家たちは献げ物に関連する掟を定める中で、一旦神殿に献げられた献金は父母のために用意したものであっても返金しなくてもよい、としたのです。両親の老後の用意を献げてしまったならば、親の老後を世話できなくなることは、当事者たちも、受け取る神殿側も重々承知しているのです。イエスさまは、神さまが重んじるように定めてくださった十戒を退けてでも、自分たちの言い分を立てたところにイエスさまはメスを入れなさり、「父と母を敬え」という神さまの戒めに対して「父を敬ってはならない」と彼らの言い伝えを言い直されたのです。

私たちの神さまは福音を私たちに見えるように光を照らし、御声を掛けてくださるお方です。ですから、ここでも宗教指導者たちにこの上なく分かり易いように、モーセの十戒は敬えと諭しているけれども、あなたがたの言い伝えでは、敬ってはいけない、ということになっていますよ、と示されたのです。

いよいよイエスさまは、彼らの言い伝えの致命的な問題をお示しになります。6節「自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました」。イエスさまのこの訴えに込められている御思いに私たちも心を向けましょう。


1 神のことばは生かす力

第一の手掛かりはイエスさまが引用されたモーセの十戒とそれを補足する戒めです。「父と母を敬え。」に続けて「父や母をののしる者は必ず殺されなければならない。」とあります。モーセ五書には、戒めに違反する者は「必ず殺されなければならない」というフレーズが何度か繰り返されています。このように加えられるのは、その戒めが人々のいのちと生活を生かすか滅ぼすかを定めるほど重要なものであることを裏付けているのです。翻せば、神のみことばがないがしろにされると、真っ先にその人のいのちと生活から力が奪われるのです。それが神のことばの意味するところです。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」とも仰せられました。聖書の聖言は皆、私たちを生かすために与えられた戒めでありおきてであり、「神のことば」なのです。私たちの生命を支え、私たちの生活を豊かにし、何よりも私たちに与えられた永遠のいのちを養う力なのです。神のことばを無にするとき、真っ先にいのちを失うのは私たち自身なのです。

2神のことばと人の心

今ひとつの手掛かりはイザヤ書の引用に込められています。イスラエルの民は口では祈りや讃美を唱えるけれども、その心が神さまから遠く離れてしまっているのです。神のことばを無にしてしまうときに、私たちのいのちは失われ、私たちの心は神さまから遠く離れてしまうのです。私たちは皆、聖言によると、神さまから心が遠く離れて生を受け、育まれ、成人し、そのまま神さまから遠く離れて生きてきたのです。しかし、神さまは決して私たちを諦めなさらなかったのです。それで神のことばを語り続けてこられたのです。使徒ヨハネは説き明かしています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」人となられたことば、イエスさまは地上にあって神さまの御心を余すところなく説き明かされ、十字架の上でご自身のいのちを差し出して、私たちにいのちを与えてくださったのです。それで私たちは救われるのです。イエスさまが、神さまから遠く離れてしまった私の心にいのちを与えて、神さまといのちの通った御交わりに入れてくださった、そう心から信じて救われるのです。救われて、クリスチャンとされて始まるこの新しいいのちは、イエスさまが仰せられたとおり、「神の口から出る一つ一つのことばで生きる」のです。

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