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「神の子を告白する信仰」マタイ連講085

聖 書:マタイ福音書14章22〜36節


五千人を優に超える人々に満腹するまでパンと魚をもてなしなさったすぐあとでイエスさまはお一人祈るために山に登られ、しばらく祈りに時間を聖別されました。一方弟子たちは舟でガリラヤ湖の対岸を目指して岸辺を離れていました。「夜明けが近づいた頃」漁師たちでさえ舟を操るのに苦労するくらいの向かい風、加えて暗闇の深さ、さらには彼らの疲労も相当のものであったことを想像することができます。疲労困憊したところでさらに舟を操るなどという経験を私たちは日常の中であまりしないかもしれませんが、畳み掛けるように私たちを疲れさせ、一休みしたいと思っているところにさらにしなければならないことが飛び込んでくる、そんな経験ならば、むしろ私たちの日常の中で度々起こることではないかと思うのです。そういう意味では、弟子たちに共感できるエピソードなのかもしれません。

湖の上を歩いて弟子たちのところに近づかれたイエスさまを見て、弟子たちは「あれは幽霊だ」と怯えて叫んだのです。イエスさまに見えなかった。かつて領主ヘロデも己の宮殿でイエスさまがまるで見えなくなっていました。しかし、ヘロデの宮殿と弟子たちが乗り込んだ舟とでは、大きく異なる世界なのです。ヘロデは徹頭徹尾イエスさまに背を向け、真理を受け止めることを拒みました。しかし、弟子たちの舟は、ヘロデの宮殿と比べると格段に鬼気迫る窮地にあり、疲れ、怯え、判断を誤るのですが、その中で彼らは主イエスさまの御声を聞き分けるのです。


ペテロはイエスさまがイエスさまであられることを知りたかったのです。その確かめ方がなるほどペテロらしいところだったかもしれませんが、イエスさまご自身はペテロを窘めなさらず、「来なさい」と招かれたのです。これこそ私たちがこの福音書の中で何度も仰がせて頂いたイエスさまのお姿です。もしかするとペテロの心の中には様々な思いが錯綜していたというのが本当のところではないかと邪推するのです。しかしイエスさまは構うことなく「来なさい」と招かれたのです。イエスさまの下に行きたいと望む訴えにイエスさまは門戸を広く開けて招き入れてくださることをこの朝まず覚えましょう。

私たちは驚きますが、ペテロは実際に水の上を歩き出したのです。しかしこの記録を記しているマタイも、イエスさまもペテロが水の上を歩き出したことに特段驚きません。むしろペテロが沈みかけたことの方が大ごとのように記録されています。私たちはもしかすると、目を止めるべきところを誤っているのかもしれません。


ペテロが沈みかけたのは主から目を離して強風を見たから。しかし風は目に見えません。聞こえても見えないものが風です。ここに私たちの恐れの特質が描かれているように思うのです。私たちは見えないものに怯えるのです。もっと言えば、見えないのに怯えるのです。それが人の弱さです。私たちの周りを強風が吹き荒れる現実、乗っている舟が中々前に進まない経験、そしてその中でしばしばイエスさまが、イエスさまに見えない霊的なチャレンジがあります。そして沈みかける瞬間があり得るのです。しかし、そのようなときにペテロは「主よ、助けてください」と声を上げイエスさまに視線を戻すことが許されたのです。イエスさまの応答は素早いものでした。「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかん」だのです。イエスさまは十分に間に合って助けてくださる、というのがマタイのメッセージです。強風を見て沈みかけても、御手を差し出し、しっかりとつかんでくださるのです。イエスさまの「来なさい」にはこの御助けが含まれているのです。


主は「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とお問いになられました。この聖言がどのように聞こえるかが問題ではありません。受け取ることが鍵なのです。ペテロが問われたのは、信仰でした。つまりイエスさまへの信頼に押し出された応答です。「信仰の薄い人」と言われてしまいました。信仰者の間に信仰の濃淡による格付けがあるわけではありません。信仰はそのとき、その場の応答なのです。信仰歴が長くて、連戦練磨のツワモノだから、信仰が厚いのではありません。ふと疑ってしまうならばいつでもイエスさまは「あぁ、信仰の薄い人よ」と仰せになって私たちの目を覚ましてくださるのです。からし種ほどの信仰があれば山を海に移すことさえできてしまうのです。


イエスさまのおことばは、信じて受け入れるならば必ず実を結びます。ペテロは速やかに救い出され、風は止み、そして舟の中にいた弟子たちは、この一連の出来事をとおしてイエスさまに「まことにあなたは神の子です」と信仰告白して礼拝を献げたのです。弟子たちはイエスさまを正しく仰ぎ見ることが許されたのです。最初は幽霊にしか見えなかったイエスさまを、いまでは「神の子」であられることを弁え知って、それに相応しく礼拝をしたのです。


イエスさまが神の子であられることを見出すときに、弟子たちは本当の意味で心配することなく、安心して歩み出すことができるのです。イエスさまが神の子であられることを弁え知るときに、弟子たちは恐れることを捨てて、勇気を得て前進することが許されるのです。イエスさまが神の子であることを悟って弟子たちは疑うことなく、確信を持って生きることができるのです。「イエスを礼拝した」とはそういう意味です。イエスさまを知らされて、平安を与えられ、志と勇気を与えられ、確信を与えられて踏み出すことです。恐れるべき方を私たちは知らされたのです。信頼すべき方を私たちは仰いでいるのです。慈しむべき方を私たちは得たのです。礼拝する方を私たちは与えられたのです。

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