「わたしたちにふさわしいこと」マタイ連講[006]
聖書 マタイ3章7〜17節
福音書の中で、イエスさまの第一声としてどの聖言を取り上げるかはとても重要なことです。マルコは「時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣言されたイエスさまが紹介され、ルカもまた、第一声というような印象はあまりないのですが、ある安息日会堂でイザヤ書を渡され、61章をお読みになって「今日、この聖書のことばが実現しました」と宣言されたイエスさまが描かれていて、これも強烈な印象を私たちに残す第一声です。
マタイはバプテスマのヨハネとの会話を丁寧に私たちに聞かせます。最初に声をお掛けになったのはイエスさまの方で、ヨハネの元に洗礼のために集まる多くの群衆や宗教家たちに混じってイエスさまも来られたような印象です。そこに集まっていた人々から見れば、みんなの一人です。私たちがヨルダン川のほとりにいたならば、私たちもきっとその方がイエスさまだなんて気付きもしなかっただろう、そういう場面です。そのような中でイエスさまは他の洗礼希望者たちと同じようにヨハネに洗礼を授けてくれるように望まれたのです。
ヨハネがイエスさまに申し上げたことは、先週彼が宗教家たちに告げたことと同じです。自分が水で授けているバプテスマとこの後お出でになる方が授けなさる聖霊と火によるバプテスマとでは次元が違う。火が象徴しているように、救い主が来られたならば、罪と悪とは、切り倒された木や籾殻が焼き尽くされるように、徹底的に解決される、そういう告白です。
イエスさまはヨハネの返答を承知なさいませんが、二つのことを彼にお示しになり、イエスさまのお望み通りヨハネからバプテスマを受けます。その二つのこととは、第一に「正しいことを全て実現する」ということ、第二に「わたしたちにふさわしいことをする」ということです。どちらもイエスさまがどのような救い主であられるのかを私たちに示す大切な手掛かりです。
1.正しいことをする方
「正しいことをする」「正しいこと、正義」ときには短く「義」と翻訳されていることばはマタイの福音書の中で繰り返されるキーワードの一つです。人は正義について考えますとき、必ずしも皆が同じ物差しを持たないことを痛感します。その中で私たちは混乱し、思い悩み、ときに逸脱し、そして皆が頷く正義を諦めてしまうのです。
ヨハネの周りに集まる人々は実に正義を突きつけられた人々でした。彼らは福音に耳を傾けて神さまの慈しみや、神さまの正しさ、きよさを耳にして、自分には正義がないと。それで彼らはヨハネのもとに集まり「自分の罪を告白」したのです。主イエスさまはそんな彼らの中で、罪を告白して洗礼を受けることは、慈しみと正義に溢れた神さまの前に正しいことだ、と仰せられたのです。バプテスマを受けて悔い改めの実を結ぶこと、日々の歩みの中で良い実を結ぶことは正しいことを全て実現する営みなのだ、と。主イエスがこれから告げ知らせ、ご自身のいのちをもって賜わる救いの道は、神さまの正しさなのです。「今はそうさせてほしい」と言われました。今、主イエスさまはその救いと神の義をお示しになるのにヨハネからバプテスマを受けるのです。
2.わたしたちにふさわしいこと
イエスさまはさらにおことばを続けなさり、「正しいことを全て実現することが、わたしたちにはふさわしいのです」と言われました。わたしたちにはふさわしいこと。この「私たち」の中に主イエスさまは目の前のヨハネを招き入れ、ヨハネの周囲に集まる受洗者たちを招き入れなさり、そしてこれから主と出会う全ての人々を迎え入れておられるのです。この福音書を通して主は今もこの聖言に耳を傾ける私たちをも招き入れておられるのです。
一人の人が罪を告白して、救いを信じてバプテスマを受けるとき、主イエスはその傍に立ち「それはわたしたちにとってふさわしいのです」と仰せになるのです。「インマヌエルと呼ばれる」主イエスは、人がバプテスマを受けて、信仰生活・教会生活の第一歩を踏み出すそのときから伴われます。私たちが洗礼を受けたとき、主は私たちの傍に立ち、それはわたしたちにとってふさわしいのです」とお喜びになり、祝福してくださるのです。
3.天が開けて明かされたこと
主イエスがヨハネから洗礼を受けたときに「天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。」天が開けるとは、神さまが永遠の世界を垣間見せなさるときに起こります。神さまはご自身の栄光の世界と人が生きるこの世界とを隔てている扉を開き、私たちにその素晴らしさをお見せになり、私たちに希望をもたらそうとされる方なのです。「鳩のように」というおことばはノアの物語を思い起こさせ、神さまの審判が終わったことを告げ救いの希望を表すのです。現代人は鳩を平和の象徴だと考えますが、罪が赦されるならば、まさに心に平安が与えられることでしょう。
続いて天から声がします。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」主に油注がれた者に対して神さまが仰せになられた詩篇2篇、またイザヤ書42章1節の預言を思い起こします。「アバ、父よ」と神さまをお呼びになるその間柄を証詞する詩篇、またイエスさまを愛され、喜ばれる神さまの御心が豊かに表されている預言です。私たちの神さまは喜びにあふれているお方です。そしてその喜びの中に私たちを巻き込んでくださるのがイエスさまです。私たちの傍で主イエスさまは私たちを正しい道にお導きになり、聖徒にふさわしく整えてくださいます。
👈 玄関の鉢植えにも春が来ています。
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