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「主イエスの御口が幸いを告げる」マタイ連講[010]

聖書:マタイ5:1〜12


主は御国の福音を告げなさり、大勢の群衆がその聖言に耳を傾け、不思議な癒しのみわざの恩恵に与り、加えて直接召されて付き従う人々も加わって、私たちの目の前には大きな人だかりがそれこそ砂ぼこりを立てるようにして、賑やかにイエスさまに付き従っています。主は振り返りその群衆をご覧になって山に上られたのです。山に向かわれたのは、彼らに向けて声が届くためでした。

これからしばらく私たちはイエスさまがお話になられたおことばの数々に直に耳を傾けることになります。一昔前は「山上の垂訓」と呼ばれて親しまれてきた一連の御教えです。今ではあまりそう呼ばれなくなり、「山上の説教」と言われるようになりました。「垂訓」と言いますとどうしても「訓示を垂れる」「道徳教育を施す」というイメージがついて回りますが、実際に5章から読み進めますとまるで訓示とは異なります。確かに主イエスの聖言は権威を帯びておられます。ついて来なさいとお招きになれば、網をその場に捨ててでも従わせる御力があり、病や悪霊までが屈服してしまう聖言であることを群衆の人々も肌身に感じてしたがっているのです。けれどもここから続きますイエスさまの語り掛けには、弟子たちや群衆たちをその権威で従わせるような勢いはありません。主イエスさまの御教えに権威があるとすれば、それは語られ告げられていることがすべて真実であることを裏付けるための熱意であり、御思いなのです。そういう意味でこの一連の聖言は「訓示」であるよりは「説教」であり福音への招きなのです。私たちはそのようにこれから続くイエスさまのおことばに心を傾け、心を開き、受け入れるように招かれているのです。


1 主に従う人々への語り掛け

さて、イエスさまが山に上られる場面に戻りましょう。付き従う群衆をご覧になってイエスさまは山に上られます。そして間近に弟子たちが集まったことを確認なさって主は口を開かれ、教え始められたのです。

主は確かに自らの生業を手放す覚悟でご自身に従う弟子たちがみもとに集うのをお待ちになり、彼らの祝福されたこれからの歩みをお示しになられますが、それは決してその他大勢の群衆から御目を逸らしなさった訳ではありません。従う志を持つ人々全て、従うことに関心を寄せている人々全てに向けて御口を開かれたのです。

逆に、誰でもいいから届けば宜しい、という種類の不特定多数に対する語り掛けだ、主は特段誰が聞いているのかは気に掛けなさらずにお話になっている、という訳でもありません。イエスさまが「その群衆」を確かにご覧になられたことを私たちは見逃してはなりません。この群衆は皆、イエスさまについていくと心に決めた人々の集まりなのです。回心してバプテスマを受けた者たち、病気や不具合を癒された人々、癒されたいと願っている人々、主の聖言に心を打たれて付き従うことにした人々。動機は何であれ、皆イエスさまに聞き従う決意をした人々だったのです。イエスさまは群衆を見渡しなさり、そのような決意をご覧になられたのです。彼らの期待、必要、また問いに対して、イエスさまは山に上り、群衆の全てに御声が行き渡るようになさって、腰を下ろして口を御開きになって、お応えになられたのです。


2 注目を求められる語り掛け

「腰を下ろして語る」とは当時のラビたちが教えを垂れるポーズだったそうです。ラビが会衆の前で腰を下ろしてポーズをとると、人々は注目をしたのです。ここからは雑談ではありません。聞き流しても大して問題のない取り留めのない話ではありません。第一声から聞き漏らすことがないように、とラビは人々の前で腰を下ろすのです。会堂に集まった人々、町の広場でラビを囲む人々は、ラビが腰を下ろすと、注目をしたのです。山に上られたイエスさまは、そこで同じことをなさったのです。群衆の前で、皆が見えるように腰を下されたのです。第一声から聞き逃すことがないように、これからお話をなさる合図をお取りになったのです。私たちはこの福音書をこの先お読みしながら、まるでラビの話に集中して静かに耳を傾けるあの群衆たちのように、一言も聞きもらさずに心を傾けるよう、マタイを通して神さまは私たちをお招きになっておられるのです。


3 人の幸いから始まる語り掛け

そして第一声が驚くことに「幸いなるかな」「あなたは幸いです」という希望に溢れた呼び掛けでした。「幸いなるかな」が文字通りの一言目なのです。「幸せは人の数だけある。」様々な人がこれと似たようなことを語っています。幸せのかたちや種類、何をもって幸せと言うかについて、みんなが一致して納得するような画一的な答えはなく、極端なことを言えば人それぞれが「幸せだ」と実感していれば、それで十分「幸せ」なのだ、という考え方を表現しています。しかし聖書の中で敢えて「幸いだ」と称えられている事柄には、福音ならではの意味合いが込められているのです。イエスさまはその意味を込めて「あなたは幸いだ」と呼び掛けなさったのです。人はイエスさまに「あなたは幸せだ。幸いだ」と告げられて、本当に自らの幸福を知るのです。イエスさまの語り掛け、イエスさまの宣言にはそのような力があります。主はついてくる大勢の人々に「あなたがたは幸いです、幸せです」と祝福なさったのです。「幸せとは何か教えてあげよう」でもなく「幸せにしてあげよう」でもなく、「あなたがたは幸せなのです」と告げておられるのです。そして主イエスは群衆の中に私たちを見出しなさり、今朝も「あなたは幸いです」と祝福されています。その聖言に励まされて新たな一週を迎えましょう。


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