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「心の貧しい幸い」マタイ連講 [011]

聖書:マタイ福音書5章1〜3節


心の貧しい者は幸いですと主イエスさまは呼び掛けなさって、山上の説教は始まります。私たちは「心の貧しい者」と呼んで頂いているのです。しかし、それが何を意味しているのかを十分に悟るのは決して容易ではありません。とても幅広く意味を想像することができるおことばです。「心の貧しい者。」


1人の貧しさ

イエスさまが人の貧しさに殊更に心を傾けなさったことは明らかです。ご自身のみわざについて、「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」(11:5)と説き明かされ、裕福な青年が弟子になりたいと申し出たときも、「あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい…そのうえで、わたしに従って来なさい。」(19:21)とお招きになりました。弟子たちにもあるとき会話の中で「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます」と仰せられたこともあります(26:11)。そしてルカの福音書を読みますと山上の説教と同様、イエスさまが平野で語られた説教としてまとめられた段落があります。そこも第一声は人の幸いについての宣言ですが、ルカでは「貧しい者は幸いです」となっています。

イエスさまの周りを取り囲む群衆の多くは主イエスさまの与えてくださる恩恵に与りたくてついてきたのです。イエスさまは彼らを山の上から見渡しなさって「貧しい」とご覧になられたのです。

私たちキリスト教会の中で時折「清貧」という言葉が使われます。進んで私有物を放棄し、貧しい生き方をすることです。尊いことですし、私たちの信仰経済を考えますときに大切な物差しとなる美徳です。しかし主イエスさまが「心の貧しい者は幸いです」と仰せられたとき、そのような美徳について語られたのではありません。心の貧しい者になりなさい、という戒めではありません。主イエスさまが群衆の中に私たちを見出しなさって「心の貧しい者」と呼び掛けておられるのです。群衆の中に混じって、救いようのない健康状態にある人をご覧になり、町の人や家族から見捨てられ孤独な人をご覧なり、貧困や差別に疲れ切った人をご覧になり、「心の貧しい者」と主イエスは呼び掛けなさったのです。イエスさまは私たちを群衆の中から見出して「貧しい者は幸いです」「心の貧しい者は幸いです」と御声を掛けてくださるのです。


2「心の」に込められた御思い

数節先を読み続けますと8節にもう一度「心のきよい者は幸いです」という聖言があります。ここでもイエスさまは「心」に触れておられます。ところが日本語では同じ「心」と翻訳されているのですが、もともとは違うことばが使われています。8節の「心」は一般的なことばで、英語で言えばハートに該当することばです。しかし「心の貧しい者」と言われたとき、主は「プニューマ」というおことばをお使いになられました。このことばは聖書の中で大概聖霊なる神さまを言い表しますが、人について使われている場合、それは人の本質、その人の自覚、その人らしさを指します。例えば使徒パウロはコリントの聖徒たちに、「人間のことは、その人のうちにある人間の霊【プニューマ】のほかに、いったいだれが知っているのでしょう。」と諭しています。主イエスも十字架でお亡くなりになるとき、「わたしの霊【プニューマ】をあなたの御手にゆだねます」と祈られました。ステパノが殉教をするときも同様の祈りを捧げています。イエスさまが「心の貧しい者」と言われたとき、それは単に感情が乏しいとか、考え方が浅はかだとかいうことよりも深い次元を洞察しておられるのです。これは人の自覚の問題です。私は貧しいという自覚です。人が「その人のうちにある人間の霊のほかに」知り得ない次元で「私は貧しい、私は乏しい、私は虚しい」そう自覚を誘うようにイエスさまは届いてくださるのです。私たちは心の貧しい人になるように招かれているのではなく、心の貧しい者であることを深く認め、絶望するほどに受け止めるように招かれているのです。


3天の御国がその人のもの、とは

しかし、それは断じて私たちが恥じ入って立ち直れなくなり、そのまま朽ち果てていくことを望んでのおことばではありません。それはむしろ、その絶望が実のところこの上ない祝福であり、そう幸いだということを私たちがそれこそ、自身の霊をもって頷くためなのです。「天の御国はその人のものだからです」。創造主であり、被造物の全てを全能の御力で慈しみ保たれる方が治めなさる王国の特権の全てはすでに「心の貧しい者たち」の手のうちにあるのです。

天の御国と聞きますと私たちは天国をイメージします。しかし天国だけが聖書の描く「天の御国」ではありません。今現在日常を歩む私たちのうちに既に始まっている御国でもあるのです。私たちは今既に天の御国の豊かな蔵から、無尽蔵の幸いを得る現実の中にあるのです。

私たちの幸い、その第一声にイエスさまは「心の貧しい者」と呼び掛けなさいました。私は心の貧しい者だとイエスさまが言われるとおりに自覚をして、受け入れ、その絶望の中から救われることをイエスさまに求めるのです。主は私たちの叫びに、祈りに耳を傾け、私たちの霊の告白に確かな救いをもってお応えになります。そして「あなたは幸いです。天の御国の無尽蔵の富と恵みはあなたのものです」と語り掛けてくださいます。その御声を確かに信仰を働かせて受け入れて、新しい一週を歩み出そうではありませんか。



👈 教会員がお献げくださいましたアンスリウムの鉢植えです。みなさまにお見せしたいです。会堂で再会するまで大切にお世話します。

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