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「主イエスに従うこと」マタイ連講[009]

聖書:マタイ4章18〜25節


私たちの信仰に関心を向けてくださる方々にとりまして、また実際にこの信仰に基づいて日々を歩みますお互いにとりましてイエスさまに従う、という主題は核心に迫る話題だと思いますし、そうあるべきだと確信しています。主イエスが公に福音を宣べ伝え始めなさってまもなく「わたしについて来なさい」と人々を招かれ、多くの人々がイエスさまに従って歩んだ、福音書の始まりの部分でしっかり記録されていること自体、その重大さを私たちに訴えています。私たちはこの先主イエスさまの語られたこと、なさったことを読みながら目を留め、心を留めて「イエスに従った」人々に倣うように招かれているのです。

1従う漁師たち

福音を宣べ伝え始めなさったガリラヤ湖畔で、主は二組の漁師の兄弟を召しなさいます。ペテロとアンデレは網を打って漁をしている最中、ヤコブとヨハネはその網を繕っていました。私たちがこの場面から額面通り読み取るのは、この招きが唐突であったところです。彼らは決して弟子となるために、福音を伝える奉仕に関わりを持つために何か準備をしていたわけではありません。イエスさまはガリラヤ湖畔の何の変哲もないある日、そこでいつものように仕事に勤しんでいる人々をご覧になって唐突に声をお掛けになられたのです。主イエスさまは私たちの日常の中に寄り添いなさいます。そして私たちの思い、ことばや歩みをご覧になってある日声をお掛けになるのです。

さて、イエスさまの唐突なお招きも印象的ですが、さらに私たちの目を引きますのは漁師たちの応答です。彼らは皆、すぐに応答し、そしてそれまでの日常を手放して従ったのです。呼ばれてその足で従う、その腰軽さを主は喜ばれたのです。召されて慌てて整える仰々しさもなく、この場面からはイエスさまの招きが一生涯を費やす次元の召命なのか、今日1日付き合ってほしいというものなのかも確かめることなく、彼らが手放したものがどれほど価値高いものだったのか、このとき「従う」ということが彼らの人生の中で何を意味するのかを吟味したり、計算したりすることもなく、その辺りも声をお掛けになったイエスさまにお委ねして、すぐに従ったのです。この漁師たちが「すぐに手放して、残して従った」とはそのような応答だったのです。

2従う群衆

23節以降にはイエスさまがガリラヤの全土を巡って福音を宣べ伝えなさったご様子が描かれています。「全域を巡って」「あらゆる病、あらゆるわずらいを癒された」と記され、更に「シリア全域に広まった」と続きます。そして人々は「みな、みもとに連れて来た」。主イエスさまのみわざがガリラヤ湖畔の一地方に止まらず、著しい勢いであらゆる方向に、そしてあらゆる種類の働きに広がる様子が生き生きと描かれています。人の生活、人の人生のあらゆる場面に、その全域に行き渡る福音であることが象徴的に描かれています。私たちに希望をもたらす素晴らしい絵画です。かつて私を救ったこの福音が静かに、けれども確実に隣の家々に、地続きの町々に、地域一帯に、そして境界線を越えて、国境線を越えて広がりを見せるのです。

そしてその生き生きとした絵画の中で私たちの目を引くのは「大勢の群衆」です。イエスさまに従う群衆です。ものすごい騒音を立てながら、砂埃を立てながらイエスさまの後を大きな人の群れが付き従うのです。漁師たちが従った様子とは少々違うかもしれません。群衆が主イエスさまに付き従った理由はその群衆の人数分だけあると言えるでしょう。けれども彼らは皆、日々の歩みの中で問題を抱えていたのです。解決したい課題、回避したい患い・痛み・苦しみ、不透明な未来。悪霊に憑かれ自分の意思が果たせず、てんかんや中風などのためにからだに不自由を覚える人々。主イエスさまは、そんな人々に道を教え、民の中のあらゆる病・わずらいを癒されたのです。天の御国の福音を宣べ伝えなさった、とはそういうみわざでした。人々の日々の痛みや苦しみ、思い煩いや迷いに寄り添い、それらを変えてしまわれたのです。

しかし、福音は奇跡的な力で提供される慈善事業ではありません。人々に欠けているところ、人々の歩みを遅らせ阻むものを取り除く働きは慈善事業の果たす役割で、尊いことです。それらが無償で提供されるならば尚更人々の賞賛を受けるでしょう。でも、それらの助けは問題が解決すれば、それで終わりです。人々は満ち足りて家に帰っていくのです。しかし、大勢の群衆は家に帰らずイエスに従ったのです。福音は単なる問題解決の道具ではありません。御国の福音は人を惹きつけ、新しい生き方を与え、豊かに生かす力なのです。群衆は彼らの日常に寄り添われた主イエスさまが福音そのものであられることを感じて、あるいは理解して、もしくは期待して「イエスに従った」のです。この方の言われたように生きてみよう。この方の行く先に私も行ってみよう。この方のご臨在に絶えず与りたい。問題や課題を抱えた人々はイエスさまに期待と希望を抱いて従ったのです。問題や課題を取り除かれた人々は、依然として付き従ったのです。

イエスさまとの出会いは人をご自身に付き従う人生に招き入れるのです。どのような従い方をするのかはこれから導かれるところです。主イエスは私たちの日常の中で福音を告げ知らせ、人々の痛みや苦しみ、病を癒しながら「ついて来るように」と招かれるのです。そして実に多くの人々が既に主イエスさまに従って歩む人生を踏み始めていることをマタイは福音書の初めに証言し、私たちをもその歩みに招き入れているのです。主イエスの教えに耳を傾け、偉大なみわざの数々に目を留めつつ、私たちも従う恵みに与りましょう。



👈教会員から頂きましたシャクヤク。

 「立てば芍薬 座れば牡丹...」

 これから花開くのが楽しみです。

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