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「悲しむ人々への慰め」[マタイ福音書連講012]

聖書:マタイ5章1〜4節


「悲しむ者は幸いです」

これは人が人として他の人に、特に悲しみの中にある人に決して容易に突きつけてはならないことばだと強く思うのです。たとい善意からあるとしても、このことばを何の但し書きもなく言い放つのは無神経だと受け止められかねません。しかしそれだけに、この聖言をイエスさまが群衆の隅々に届くように宣言されたと言う事実は、細心の注意を払って心を傾ける価値のあることです。

英語には”Blessing in disguise.”という表現があります。「変装をした祝福」というような意味で、不幸に見舞われた人を慰めるために使われる言い回しです。日本語には「災い転じて福となる」という表現もあります。でもイエスさまがここで「悲しむ者は幸いです」と仰せになられたとき、決してものごとの見方を変えたり、対処法をうまいこと選んだりすれば、という処世術を助言なさったのではありません。イエスさまにしかお告げになることができない福音を、主は群がる群衆にお届けになられたのです。

実は旧約聖書イザヤ書に収められている預言に、貧しい者への福音、そして悲しむ者への慰めが続けざまに約束されている箇所があり(イザヤ61:1〜2)、多くの聖書の専門家は、最初の二つの「幸いです」はイザヤ書61章1〜2節を思い起こしてお告げになられたのだろう、と解説しています。教会でこの聖言が説教されるときも、この2項目が一緒に取り上げられることが多いようです。ただ「悲しむ者」に対して「あなたがたは幸いです」と告げること自体相当の確信、権威と根拠がなければできないおことばだとすればば、このおことばに集中して心を傾けることがふさわしいと今朝は導かれています。


1. 悲しむ者すべてへの呼びかけ

使徒パウロはコリント書に「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます」と綴っていますが、そのおことばを手掛かりにして、イエスさまもまたここでは「神様の御心に叶う、謙虚で罪を後悔するような悲しみ」についてお話になっている、と考える方もおられるようです。つまり、悲しみにも良し悪しがあり、認められる悲しみと到底認められない悲しみがある、という見方です。さて、主イエスは群衆を見渡しなさって彼らの悲しみを査定なさったのでしょうか。少なくともマタイの記録にはそのような区別は見出せません。イエスさまは人の悲しみについては文字通り何の条件も加えておられません。私たちの間では、悲しみにも様々な程度や質があるのかもしれません。みんなが共有できる悲しみもあれば、その人にとっては悲しみであっても周りの人々にとっては取るに足らない出来事、ということもあるでしょう。ただ、主イエスさまは悲しみの内容を吟味なさったのではなく、悲しむ人に目を向けなさったのです。


2. 悲しみが訪れる現実

悲しみは人を選ばず、時や場所も弁えず私たちに降りかかるものです。悲しみは私たちの日々の歩みの中で確実に私たちに訪れ、少なからず私たちに痛みをもたらします。予測もしていないときに訪れる悲しみは、驚きも加わって格別に痛みます。何故私がこのような仕打ちに、と疑問が湧くかもしれません。そのような私たちを主イエスは群衆の中に見出して声を掛けてくださるのです。

群衆の中には自分の罪深さに打たれて悲しむ人々がバプテスマを望み、またそれこそ病を患い、人間関係に苦しみ、悩みを抱え、悪霊に憑かれた人々もいました。「悲しむ者」への呼び掛けはその一人一人に届いたのです。弟子たちもイエスさまの足下に集まっていました。彼らはこれからイエスさまに真実に付き従っていくが故に様々な痛みと艱難、それこそ悲しみに甘んじることになります。彼らが涙するごとにイエスさまの御声が届くのです。「悲しむ者は幸いです」。そして私たちもまたこの朝、この群衆の中に身を置いているのです。


3. 慰められる悲しみ

悲しむ者が幸いなのは、慰められるからです。「慰め」は思いの外私たちの福音の中核に据えられています。預言者イザヤのメッセージにも「慰めよ、慰めよ。わたしの民を。―あなたがたの神は仰せられる―」とあります。「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者」と神は呼び掛けなさる。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める」というお約束でイザヤ書は締めくくられます。慰めのメッセージはモーセ5書の中にも、歴史書、また詩篇にも豊かに散りばめられています。主イエスさまは改めて、私たちの幸いを告げなさるのに、悲しむ者が慰められる世界をお見せになられたのです。

イザヤは救世主について「悲しみの人で、病を知っていた。彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」と預言します。イエスさまはこの預言のとおりのお方でした。十字架につけられる前夜、ゲッセマネの園で悲しみもだえなさり、弟子たちにも「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言われます。私たちの主もまた、悲しみの深みで慰められることを御父に期待し、その望みは報われたのです。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)


主イエスは、人の悲しみの深さをご存知で、それにまさって慰められることの幸いと確かさをご存知のお方なのです。それですから私たちもまた、日々の歩みの中で悲しみと痛みに巻き込まれるとき、主イエスさまのこのおことばを思い起こして、期待を新たに神さまの慰めを待ち望むことが幸いなのです。




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