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「試みと向き合う聖言」マタイ連講[007]

聖書 マタイ福音書4章1〜12節


主イエスさまが御働きの最初の段階で試みと向き合われたことは、私たちにとりまして意義深い事実です。試みには二通りあるように言われます。一つは魅力ある物事に誘われるような誘惑。今ひとつは耐え難い苦痛や重荷です。これらが聖書の中で「試み」と呼ばれるのは、そういった魅力や苦痛、重荷などが、強い力で人を神さまの祝福から遠ざけてしまうときです。その力が著しいものですから、主イエスは弟子たちに祈る時には「試みに合わせないでください」と祈るように教えなさいました。試みとは、人がどうしても避けなければならない、ましてや弄んではならない、祝福からの脱線です。主イエスが福音を告げる御働きを始めなさる段階で試みに遭われたことは、その福音に生きようとします私たちが試みに備えるための確かな手掛かりとなります。


試みは、如何なる時でも訪れるものです。四十日間の断食を果たされ、霊的な高みにおられた主、同時にこの上ない空腹に襲われていたことが記されています。試みは人が落ち込んでいるときでも、最も高揚しているときでも容赦なく訪れます。しかしそれが絶えず神さまの御手のうちで訪れることも明らかです。「荒野」が試みの舞台となっているところ、四十という日数、イエスさまが引用された聖言が全てモーセによる申命記のメッセージからのものであること、どれをとりましても、出エジプトの歴史と重なることが示されていて、神さまがイスラエルの民を四十年導かれたように、この試みもそうだと読み取れます。神さまのご存知ないところで起こる出来事ではありません。


第一の誘惑はもっともらしい誘いでした。主イエスご自身の能力で石をパンに変えることで、自分が「神の子」であることを証明して、「人の子」とは格が違うことを示す誘いです。主イエスさまが神の子であられると同時に人の子であることがたった今四十日の断食の後の空腹で証詞されたのに、そこを否むことになるのです。そこを否みますと主が人となって人ならではの弱さを全て味わいなさることが初めから偽りとなってしまうのです。それでイエスさまは「人はパンだけで生きるのではなく」、「人は」とお応えになりました。「わたしは」でもなく「人は」。イエスさまは開口一番悪魔にご自身が神の子であられると同時に「人の子」であることをお譲りにならなかったのです。私たちの救い主は私たち人についてご存知なだけではありません。人としてその生涯を貫かれた救い主であられます。

悪魔は間を置かずにエルサレムの神殿にイエスさまを連れて行きます。そこで再び「神の子」であることについて証明を求めます。今度はイエスさまご自身が神か人か、ということから視点を逸らして、神さまに愛され、それ故に守られていることを証明するようにいざないます。詩篇から引用をして悪魔の誘いに聖書的根拠があることを示し、神さまのご臨在が確かにある聖なる都の神殿ならば容易に神さまとの良好な関係を証明できるでしょう、という誘いなのです。主イエスさまはこの誘いに対して再び申命記の聖言を突きつけます。

「あなたの神である主を試みてはならない」

神さまの御守りが確かにあることを確信することと、神さまの御守りを確かめるために私への危険を引き起こすこととはまるで違うことなのです。前者は純粋に神さまの御心です。私たちをお守りになるというのが純粋な御心だなんて、本当に素晴らしいことです。しかし後者、つまり自ら危険を引き起こすことの中には微塵も神さまの御心がありません。イエスさまはそのような振る舞いを「神である主を試みる」ことだと言われて明瞭に退けなさいました。私たちは試すことを知らない交わりの中に招かれているのです。


悪魔は三つ目の試みでは本音をさらけ出し、「私を拝め」と迫ります。その礼拝には報酬が伴うので誘惑なのです。「この世のすべての王国とその栄華」。主イエスさまはご自身の前に、この世のすべての王国と、天の御国とを並べられてどちらを選ぶのか迫られ、「わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言われる神さまと、「あなたが神の子なら」と試み続ける悪魔とを並べられてどちらかを選ぶように迫られたのです。イエスさまはこれまでになく明瞭なお返事をなさいます。「下がれ、サタン。」そして今一度申命記の聖言を引用なさり、「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」と命じられたのです。もちろんこのお返事を通してイエスさまはご自身の進みなさる道を確かなものとされました。けれども同時に主イエスさまのお姿は私たちへの招きとなっています。この上なく明瞭にイエスさまは私たちが仰ぐのは私たちを慈しみ、私たちをご自身のものと守られる神さまで宜しいのだ、と示しておられるのです。その他何者も「私を拝め」と迫る試みは躊躇なく退けてよいのです。天の御国に勝る報いと祝福は断じてないことをこの上なく明瞭に主イエスさまはお示しになられたのです。何であれそれ以外のものを代わりに報酬として与えようという試みは退けても大丈夫。決して損をすることはないのだ、とご自身身を以て御示しくださったのです。


人は神さまの御心を貫いて大丈夫なのです。如何に魅力的な誘いをも退け、どれほどしんどい苦痛を耐え忍んでも貫く価値のある神さまの御旨を選び取るように私たちは招かれています。人はまた、神さまのご真実を鵜呑みにして大丈夫なのです。決して裏切られることはありません。決して忘れられることはありません。私たちは主イエスさまに倣い、神さまのみを仰ぎ見て、神様からの祝福のみに心を踊らせ期待して待ち望むお互いでありましょう。



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