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「柔らかく和やかな幸い」[マタイ連講013]

聖書 マタイ5章1〜5節


私たちは自分自身のことを「柔和な人」だと意識したり、ましてや主張することをおこがましいと感じるかもしれません。しかし、イエスさまは山上の説教の三言目で群衆に向かって「柔和な者は幸いです」と語り掛けなさいました。今朝は与えられました時間、聖言を紐解きながらイエスさまが仰せになられた「柔和な者」について心を傾けるように導かれています。

柔和ということばを国語辞典で調べると大概「性質や態度が物柔らかであること。優しく穏やかであること」、反対から見れば、刺々しさがないこと、乱暴でないことのようです。さてイエスさまはどのような人をご覧になって「柔和な者」と仰せになられたのでしょうか。イエスさまがこの上なく尊んでおられた聖書の聖言に目を向けますと、思いの外「柔和」について書き記されている箇所は限られていて、おそらく5、6箇所を数える程度でしょう。私たちの今朝の学びの手掛かりとなる聖言が詩篇37篇11節にあります

「しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。」

イエスさまが山上で仰せになられた聖言にとても近い詩篇だということで、多くの方が、この詩篇を思い起こすそうです。詩篇37篇は実のところ「怒りを宥める詩篇」として知られています。神さまに従っている人たちがこの世の悪に対して怒っているのです。彼らは正しい人々に対して敵対してくるのです。しかも往々にして彼らの悪どい企てが成功するのです。ダビデはそんな信仰の仲間たちを宥めるように「悪を行うものに腹を立てるな」と語り掛けます。ただこの詩篇はここで終わらず、ダビデは続けます。「主に信頼し善を行え。地に住み誠実を養え。」「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」その延長線上に先ほどの聖言が記されています。

「柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする」

「主によって人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる」

柔和な人とは、ただ単に憤りや苛立ちを退ける人というだけでなく、それ以上に主に信頼し、主のなさることに委ねる信仰を持つ人々だということが読み取れます。イエスさまが群衆をご覧になり、様々な思いを抱きながらイエスさまに従う人々を見渡しなさって、彼らの思いを一つ一つ受け止めなさり、「柔和な者は幸いです」とお応えになられたのです。

ダビデの詩篇が描く柔和には神さまを信じる人々ならではの世界が刻まれていました。それは主に信頼する姿です。神さまにお任せする生き方です。神さまが正しくさばき、相応しく報いてくださる。自らが置かれている境遇も、これから将来の道筋も全て主に信頼をしているので、怒ることをやめ、とげとげしく心を乱すことから守られる。もの柔らかく歩むことができるのは、神さまに対する信頼が揺るぎなくあるからなのです。

私たちが穏やかで柔和でいられるのは何も、私たち自身に十分な蓄えや準備があるから、ではありません。以前参考にしましたイザヤ書61章に手掛かりがあります。「貧しい人に良い知らせを」と記されていましたが、ヘブル語では「貧しい人」と訳されていることばと、詩篇37篇11節の「柔和な人」は同じ「アナイーム」ということばなのです。つまり旧約聖書の中で、柔和な人と称えられる人々は、必ずしも蓄えが潤沢でなければいけないわけでなく、文脈によっては貧しい人、乏しい人と重なることもあるくらいなのです。この点でイエスさまが説き明かしなさる柔和とこの世が示す柔和の間に大きな違いがあります。

人の備えや富に関係なく、ついてくる群衆に向けて「柔和な者は幸いです」と宣言されたのです。その柔和は、神さまに信頼する中で生まれることを、いつの時代にも親しまれた詩篇37篇は私たちに告げています。それで神さまに信頼するとはどういうことなのでしょうか。様々なことに思いを巡らせることができると思いますが、山上の説教の場面を思い描きながらイエスさまがご覧になった群衆を私たちも見渡しますと、彼らは皆動機や望みは異なりますが、同じようにイエスさまについて来ているのです。私たちに明かされた福音は、主イエスさまを救い主だと信じるように招いています。そして信じるならば、心から信頼して従うことを意味している、と福音は私たちに明かしているのです。これがイエスさまの仰せになる「柔和な者」の本質です。神さまに従っている自覚があって柔らかいのです。イエスさまのお姿に倣っているので穏やかなのです。御霊の導きに従うので平安が溢れるのです。

柔和な者の幸いについてイエスさまは、「その人たちは地を受け継ぐからです」と約束しておられます。旧約聖書の中で神さまは繰り返しご自身の祝福の約束として「約束の地を与える」と語って来られました。聖書に親しんできた群衆の人々は皆イエスさまが「その人々は地を受け継ぐからです」と仰せになられたのを耳にして、神さまが約束を果たしてくださるということだ、と悟ったのです。そして私たちもその意味でイエスさまのこの聖言を私たちのうちに刻むことが祝福です。

 やがて主はエルサレムに子ろばに跨り「柔和な王」としてご自身を表しなさいます。それは御父を信頼して十字架の道にまで従順に従われる証しでした。その結果人類は至高の幸いを得ました。罪からの救い、神の御国への救いです。

「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」

この一週もお互いの持ち場立場に散り行きますが、それぞれが主の備えてくださった祝福を目指して御心に従い、柔和な歩みを全うされますように祝福をお祈り致します。


👈 数年前から教会の花壇に加わりました

 カシワバアジサイです。今年も咲いて

 くれました。

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