「憐れみと哀れみ」マタイ連講[015]
- immkanazawa
- 2021年6月28日
- 読了時間: 5分
聖書:マタイ5章1〜7節
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」
「情けは人の為ならず」と言いますが、あわれみも然り。人のためになるだけではなくて、自分に返ってくるから大いにあわれみ深い人になりましょう、ということでしょうか。しかしこの聖言、少し考えただけでも実はさほど単純な真理ではないことに、お気付きになられると思うのです。
私たちはあわれみ深い者であることが相応しい、幸せなことだと言って頂いていますが、イエスさまは続けてあわれみ深い者に備えられている報いは「あわれみを受ける」ことだと告げなさいます。私たちはあわれみを受ける側に辿り着くためにあわれみを大いに施すのでしょうか。
イエスさまのおことばが少々小難しく聞こえて来る原因は、「あわれみ」という聖言にあります。イエスさまが仰せになられる「あわれみ」と、私たちが一般的に考える「あわれみ」との間には違いがあるのです。それであわれみ深い人になることと、あわれみを受ける人になることとが矛盾しないで成り立つのか、疑問になるのです。
イエスさまがあわれみを説き明かしなさるとき、それは一貫して聖書が私たちに示す種類のあわれみです。そして聖書が私たちに示すあわれみの第一の特色は、それが人の美徳や品性であるということの前に、生ける真実の神さまのお姿そのものであるという点です。かつて神さまはモーセにご自身を自己紹介なさるときにこのように仰せられました。
「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ」(出33:19)
「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す」(出34:6〜7)
どちらも新約聖書に引用されて、神さまがどのようなお方であるのかを雄弁に説き明かしています。神さまがあわれみを掛けようと御心に定められたときに、それを妨げることができるものは何もない、という力強いお約束、断固とした決意表明なのです。それだけあわれみとは神さまのご性質、神さまの御思いの中核にあるのです。イエスさまがここで「あわれみ深い者」と仰せられたとき、そして「あわれみを受ける」と言われたとき、神さまのご性質をお示しになっておられたのです。
旧約聖書は神さまがあわれみに富み、情け深い方であるという証言で溢れています。神さまはあわれむ人を特に選り好みなさいません。旧約聖書の歴史は神さまがご自身の民に繰り返し祝福のお約束を交わし、更新なさる歴史です。繰り返し神に背を向ける民を赦し、約束を結び直し、聖言を与えて祝福の道を指差してくださるのです。その御心をヘブル語で「ヘセド」と言い表しています。あわれみと翻訳されることが多いですし、その豊かさに合わせて、慈しみと訳されることもあります。またヘブル語でもヘセドという一語では網羅することができず、ラハミーム、ハマルというようなことばが使われてそのあわれみの豊かさが表現されています。
その神さまがヘセドについて私たちに語りかけておられる預言がホセア書6章6節に記されています。
「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。
全焼のささげ物よりもむしろ、神を知ることである。」
かつて「わたしはヘセド、誠実を喜ぶ」と翻訳されていました。「真実の愛」とは思い切った翻訳改訂です。「ヘセド」ということばの豊かさを十分に言い表すために変更することに決められたようです。神さまは礼拝する最上の営み、全焼のいけにえに優って、私たちがあわれみを、真実の愛を生きることを喜ばれるのです。
マタイの福音書に戻りましょう。12章にイエスさまがホセア書を引用なさって、当時の宗教家たちを諌めていらっしゃるお姿があります。やはり「わたしが喜びとするのは真実の愛」と語られています。脚注には小さな字ではありますが、「あわれみ」と訳せることばだということが説明されています。「あわれみ深い者は幸いです。」とイエスさまが仰せられたときのあわれみと、神さまが喜ばれる真実の愛とが結びついています。イエスさまは群衆を見渡しなさって同じ神さまの御思いをここでお示しになられたのです。「あわれみ深い者は幸いです。」ここには何ら限定も区別も差別もありません。
そして主が「あわれみを受けるから」と言われたとき、そこにも条件は一切ありません。どれほど豊かな人々も、いかに乏しい人々も等しく「あわれみ深い者は幸いです」と招かれています。そして群衆を見渡しなさって余裕のある人々にも、困窮している人々にも等しく「あなたがたはあわれみを受けるから」とお約束なさっています。これは私たちクリスチャンにとりましても生涯開かれている招きであり、ある意味チャレンジではないだろうかと思うのです。
人の世ではあわれみを掛けるにしても、受けるにしても様々と煩わしい面倒や、いざこざ、気持ちのもつれなどに見舞われたり致します。しかしイエスさまは神さまのあわれみを、真実の愛をお見せになりながら、すべての人に呼びかけておられるのです。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」私たちがお互いの間で、イエスさまが告げられたように、神さまの真実な愛を示し合い、誠実と慈しみをもって互いに尊び、また互いにあわれみを受ける恵みに預かるならば、これほど雄大な証しをこの世に対して立てることが許されるのではないでしょうか。

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