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祈りについて(6)―日ごとの糧を(マタイ連講033)

聖書 マタイ福音書6章9〜13節


この祈りはこれまでの祈りの続きで、これまでと同じように「天にいます私たちの父」に献げる祈りです。心優しいお兄さんが弟や妹たちに、「お父さんにお願いするときにはこう言ったらいいよ」と教えてくれる、あのイメージを少し思い起こしながら耳を傾けましょう。子供の頃私たちが家に帰って「お腹が空いた」と訴えるとき、大抵は何か小腹を満たすものを差し出してもらえたように思うのです。私たちが天の父に日ごとの糧をお与えくださいと祈るとき、それにまさる安心感を抱いて祈るように、求めるようにと招かれているのです。食べ物のことに限らなくても、私たちの必要、心配事、また私たちの望みのため、「私たちの」と訴えて「お与えください」と求めなさい、そう招いておられるのです。「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」。

さてしかし、この祈りは一面実際に食卓に並ぶ日々の食事のことではありますが、その奥にもっと深い意味があり、特定の状況に置かれた人たちだけでなく、イエスさまについてくる全ての人に当てはまる真理が込められています。今朝は二つのことだけお話しようと思うのです。そうすればイエスさまが教えてくださったこのお祈りの意味をもう少し深く理解して、私たちも祈ることができると思うからです。一つは私たちの聖書に書かれていることについて、もう一つは私たちの聖書の行間に隠されていることについてです。


1日々の糧(パン)の意味するところ

書かれていることとは、「日ごとの糧」ということばです。「糧」とは食べ物のこと、しかも主食のイメージが強いです。もともとのギリシア語では「アルトス」ということばが使われていて、日本語に直すとそれは「パン」という意味になります。説教に耳を傾けている群衆にとっての主食です。「糧」とは人が1日力強く生きるために必要な活力、エネルギーだと言えます。

私が子どもの頃、人の心臓が1日動き続けるために必要なエネルギーは食パン一枚程度だと学校の先生が教えてくれたことがあります。しかし日ごとの糧、パンを今日もお与えくださいとは、その日食べる食事のことだけでなく、私たちがその日生きる力を与えてくださいという祈りだと言えます。そして生きる力というとき、イエスさまは私たちの健康のことだけを思っていてくださるのではありません。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる、とイエスさまはお話になられたことがあります。それは人がからだの健康だけでなく、神さまの聖言に養われて生かされる心の世界があることを諭すためでした。私たちの心が今日も生かされますように。今日1日私たちの心を強く生かしてください、という祈りでもあるのです。そのようなお祈りを献げて1日を始めることで、私たちはその日を安心してスタートさせることができます。どうでしょう。今朝はみんなで声を合わせて主の祈りを献げました。明日は皆それぞれの場所にいますけれども、「今日も私の健康と心を養ってください。日ごとの糧を与えてください、とお祈りを献げて生活を続けようではありませんか。天にいます父なる神さまは、間違いなく私たちのいのちを支え、豊かに養ってくださいます。




2「私たちに」が意味するところ

さて、今朝は二つのことをお話するとお約束しました。二つ目は私たちの聖書の行間に隠されていること。実は一箇所「私たちに」ということばが隠されているのです。11節は実のところ「私たちの日ごとの糧を、今日も私たちにお与えください」というのが直訳です。少々回りくどいので省略されたのでしょうけれども、主イエスも敢えて回りくどい言い方で教えられたのです。

このお祈りはなるほど「私」が一人でこっそり祈るお祈りではなく、兄弟姉妹たちが心と声を一つにして献げる種類のお祈りなのです。この祈りの最初からそうでした。「天にいます私たちの父よ」。

イエスさまはご自身について従う人たちの姿を羊の群れに譬えなさいました。それは羊の性格が群衆の姿に似ていたからです。羊は群れを作って移動するそうです。羊飼いについて動くときも、草原で草を食べているときも何頭も群れをなしながら青草を食べては移動するのです。ソーシャルディスタンスを保って動くのは羊の性(しょう)に合わないのです。私たち人間はもう少しデリケートなところがありますから個人を尊重したりしますが、人をお造りになられた父なる神さまからご覧になったら、「人が一人でいるのは良くない」のです。群れから切り離されてしまうのは良くない。100匹の羊の群れがいたとして、一匹がいなくなるということがどれだけよくないことなのか。パレスチナの一帯では羊が方々で飼われていましたから、人々はこの譬えに親近感を抱いていただろうと思うのです。

羊は弱い動物なのでそれこそ譬え話に出てくる羊のように、肩に担がれて連れ帰らなければならないのかもしれません。でもイエスさまは人にはもっと期待をされていたのです。イエスさまは繰り返しお弟子さんたちに「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と教えて来られました。山上の説教でもこの間そのように学びました。まずは「私たち主にある兄弟姉妹たち」お互いを見渡して、お互いを思いやって日ごとの糧をお与えくださいと祈るように招かれているのです。皆で声と心を合わせて、天にいます私たちの父に、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈って、お互いが神さまに養われ、支えられ、強められている姿を確認して、感謝して与えられた道のりを進んでいくのです。



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