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「福音は何を変えたか」を読みました



「福音は何を変えたか〜聖書翻訳宣教から学ぶ神のミッション〜」(福田崇著、いのちのことば、2019)」

先月 著者の福田崇先生より本書が届きました!福田先生は日本ウィクリフ聖書翻訳協会をずっと指導してこられた方、小生の父と親しくしてくださいました。実際父もウィクリフの働きに多大な関心を生涯持ち、小生が献身をするという話しが出た際も、有力な進路先になっていました(だから大学も言語学を専攻したわけで)。それで学生の頃から何度かお会いしたこともありました。

  本書は先生がこれまでウィクリフで展開してこられた翻訳事業を振り返るような内容となっています。ご家族をあげて壮絶な人生を歩んでこられました!特にフィリピンはカダクラン地区で進められた(ている)働きが生き生きと描かれています。

  さらに聖書翻訳事業を将来を見据えてでしょうか、このような働きに携わる人々の「資質」について一つの章を用いて紹介しています。言ってみれば「適正」の問題でしょうか。確かに神は全能ですからロバの口を用いて預言をなさることもお出来になりますが、人の側でもそれなりに自分自身の得手不得手を知って、どのように携わるのか、どのような準備が必要なのか備えることも、神の召しに対する大切な応答ではないだろうか。。。

  最終章にはウィクリフの働きに従事された器の目からご覧になった「教会観」が展開されています。新鮮なものです。「一教会、一会堂、一牧師」というイメージに対するチャレンジが鋭く切り込まれています。「信徒主導」についても先生ならではのメスが入っています。奇しくも他の文脈で「一教会・一会堂・一牧師」についての限界が訴えられていましたが、それはあまり前向きなものではありませんでした。一人の牧師として、簡単に今与えられている「カタチ」を変更したり、放棄することは無責任だと感じています。「新しいカタチ」を追い求める前に、まだまだ今のカタチでできることがいくらでもあるのではないか、と思いました。ただ、皮袋が古くなったならば、変えることも信仰の踏み出しだろうな。でも、福田先生が最後に告白なさっているように、福音が何を変えたのか?何よりも自分を変えた。そう告白なさる器は偉大です。

  かつて父から聖書翻訳の働きについて、そして福田先生について教わったときに、正直こう考えました「ぼくは、人と接するのは好きでないし、得意でもない(今もそうです)。ならば聖書翻訳は打って付けの働きではないだろうか。生涯人に絡まれることなく、書斎で神に仕えることができるんだから。」

大間違いでしたね。本書を読んでも、聖書翻訳事業がどれだけ現地の人々と接し、彼らを愛し、彼らに仕え、犠牲を厭わず、その延長線上に翻訳された聖書が完成するのですよ。

  大学の頃「人類言語学」の教授西江雅之先生がこんなコメントをしていました。

「キリストの坊主(宣教師)たちがいなければ現代言語学は発達しなかった。連中はいったい何が楽しくて、よその国の言葉に関心を抱き、人生を捨ててまでそれを理解し、分析し、しかもそれを教えてまでして、聖書を翻訳したがるのか。よく分からんが、おかげさまで言語学なる学問が成立しているようなものだ。」

多分、こんなに乱暴なことばではなかったと思います(「キリストの坊主」は教授の表現です!)。でも福田先生ご夫妻、ご家族と出会えればその謎は解けるのだろうな(いや、深まるか?)。127ページ、写真もたくさん入っていて一気に読める一冊。




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