クリスマス礼拝「主イエスに出会う喜び」
聖 書:マタイ2章1〜12節
今年のクリスマス礼拝に心から歓迎致します。私たちの教会では昨年の3月からずっとマタイの福音書を1章から読み続けております。折角丁寧に学んでいる福音書ですから、マタイのクリスマス記事を味わうように導かれているようにも思います。2章に収められているエピソードは、東の方からイエスさまを礼拝に訪れた博士たちの物語です。彼らは「ユダヤ人の王としてお生れになった方」を捜し出して礼拝をするために旅をしていたのです。彼らが求めていたのは「礼拝に値する方との出会い」でした。独特な出会いです。今朝はその辺りをご一緒に読み取っていきたいと思うのです。
1礼拝の形を取る出会い
博士たちが求めていた出会いは、最初から礼拝の形を取る出会いでした。お友だちや仲間を増やすことを求めた訳ではありませんでした。友だちや仲間を信頼したり尊敬したりすることはあっても礼拝はしないでしょう。そんなことをしたら多分妙な空気が漂うことでしょう。それは私たちがお互いに礼拝し合う存在ではないことを直感的に弁えているからです。礼拝にはそれだけの重さがあるのです。人には受け止めきれない荘厳さが込められている。礼拝を献げる人と、その礼拝を受ける存在の間には越えられない次元があって、人徳の差ですとか、能力の違い程度では測れないほどの違いがあることを認めるのが礼拝の一つの側面です。
博士たちは不思議な星が昇るのを観測して、そのようなお方が現れなさった、お生れになられた、そのように確信してこの旅を始めたのです。彼らが出会うお方は、彼らが肩を並べる存在ではなく、いつでも仰ぎ見るべき存在でした。エルサレムで君臨していたローマ当局のヘロデ王が動揺したのは、博士たちが礼拝をする心持ち、さらに言えば覚悟を肌身に感じたからです。彼らがエルサレムまできて礼拝を献げる、それだけの存在であるならば、自分たちもこれまでと同じようでは済まされない、ということを感じ取ったのです。
さらに、そのお方は何かを成し遂げるから礼拝に値するのではありません。博士たちが礼拝に来たユダヤ人の王は幼子なのです。まだ母親に抱かれるような幼子を彼らは礼拝したのです。大の大人が、博士と呼ばれるほどの人々がひれ伏したのです。
礼拝は、ある人物を讃えたり賞賛したりすることとも異なります。博士たちの旅はそういった著名人に対する憧れや羨望、興味関心から望んだものでもありません。博士たちはローマ帝国が認定したヘロデ王に謁見しましたが、ヘロデを礼拝することはしませんでした。礼拝とはひれ伏すことです(11節)。平身低頭して自分のすべてを投げ出し、自分の最も奥底にある尊厳を差し出して、「あなたが私の神であられることを受け入れます。」という向き合い方なのです。それだからこそ礼拝は神さまにしか向けられないのです。博士たちはひれ伏して礼拝し、宝の箱を開けてその中に収めてきた最も貴重な贈り物を献げて、自分自身を差し出した信仰を表したのです。
2喜びに包まれた出会い
さて、礼拝に参列される一人一人が、あなたの全てを神さまの御前に差し出しますか、と問われるのですからそれはもう真剣そのものです。しかし、それでは礼拝とは重苦しい営みなのでしょうか。そうではないことがよく分かるのが9〜10節の聖言でしょう。
「…かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」
彼らを包んでいた空気は、悲壮感や喪失感ではなく、この上ない喜びでした。これが博士たちの礼拝の何よりの特色です。彼らのすべてを明け渡すときに喜びが訪れる。彼らにとって大切だ、宝だと大事にしてきたものを差し出したときに、彼らは神さまの豊かさに包まれて圧倒されるのです。ミカの預言のとおり、ベツレヘムから出る「治める者」は搾取する暴君ではなく、羊飼いのように牧するお方です。羊たちを養い導くように従うものを豊かに顧みてくださる。マタイの福音書を学びながら話たちたちはそのようなイエスさまのお姿を仰がせて頂いています。
博士たちはその夜早速、夢で帰り道について導きを得ています。彼らが自分の国に帰っていった、とは礼拝が終わって元の生活に戻ったという意味ではありません。むしろ彼らの礼拝が、早速実を結んで、彼らを安全な道へと導いた新たな歩みの始まりを物語っています。彼らはもはや福音書には登場しません。それは彼らが福音書の描いている地図の圏外、東の彼方に出て行くからです。彼らには今や「治める者」が伴い、牧する方が絶えずこれから導いてくださり、養ってくださるのです。あのこの上ない喜びに包まれながら帰って行った先で歩むのです。彼らが私たちに見えるか否かが問われているのではありません。問われているのは、私たちが彼らに倣って、イエスさまを礼拝し、イエスさまにすべてを明け渡し、その引き換えに神さまの豊かさに包まれ、この上ない喜びに包まれて歩むか否かです。
この朝一人の姉妹が洗礼を受けなさいました。これから先、神さまの豊かさを味わいながら、神さまの導きの確かさを踏みしめながら、共に私たちは前進を致します。12月は特に多くの兄弟姉妹方にとって洗礼の記念日です。先に同じ信仰に立たれた方々からも恵みのお証詞を大いに聞かせて頂きたいのです。
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