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アドベント①「罪の赦し、罪からの救い」(マタイ連講036)

聖書 マタイ福音書6章9〜15節


教会の暦では丁度今朝からクリスマス節期が始まります。私たちがイエスさまのお誕生をお祝いするというときに、決して切り離すことのできないテーマの一つが救い、罪からの救いです。今年のクリスマスは皮切りに、この罪の赦しの問題から切り込むように導かれています。


それで今私たちが学んでいますマタイ福音書の連講の流れですが、ちょうど主の祈りの原点となるイエスさまの御言葉にしばらく耳を傾け、その締め括りをしたところです。ただ、もう少し取り組まなければいけない聖言が残されていて、それが14〜15節です。イエスさまは「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」という祈りのおことばについて、もう少し説明を深めなさいました。クリスマス節期を始めるに当たって「罪の赦し」について学ぼうと致します私たちに、相応しい聖言ではないでしょうか。

「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」

とても分かり易いおことばです。ともすると、イエスさまにわざわざ教えて頂かなくても、私たち人間社会でもこの理屈は十分に通じる道理です。赦す心のない人に、情けを掛ける必要などない。マタイの後半にもこれととても似た譬え話をイエスさまはなさっています。王さまが、莫大な借金を背負ってしまった家来のことを可哀想に思い、その借金を帳消しにしてしまったという話しです。ところがその家来は自分の仲間の一人が自分に借金をしているのを思い出してその人に断固返済を迫ります。そのことに心を痛めた周囲の仲間たちは王さまに一部始終を報告し、王さまも一度は帳消しにした借金を再び彼に課した、という話しです。その締め括りでもイエスさまは「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです」と戒めなさいました。なるほど理に叶っています。


それでも正直なところ、釈然としないところが残るのではないでしょうか。私がだれかを赦せないうちは、私も赦してもらえないということなのだろうか。そもそも聖書の神さまはご自身を恵みと憐れみに満ちた方だとお示しになられたではないだろうか。神さまはフェアなお方だと教えられたけれども、これでは本当に公平だろうか。人によって赦さなければいけない「過ち」の重みは異なるはず。それでも全ての人に赦すことを同じように求めるのだろうか。そして私たちは誰しも不安と恐れを抱くのではないでしょうか。私たちがもしも、どうしても赦せないような仕打ちを受けたとしたら、私たちはどうなるのだろうか、と。これらのような疑問や不安を心に抱くとすれば、それはそれだけ真剣にイエスさまの聖言と向き合おうとなさっている証しです。どうかその不安や疑念をなかったことにしてしまわず、神さまからの語り掛けを待ち望んで頂きたいのです。


私たちが赦しについて、頭では頷いてはいるものの、何か釈然としない違和感があるとするならば、その原因は私たちが今朝スタートした地点にあるのかもしれません。「私たち人間社会でもこの理屈は十分に通る。」しかし、これは神さまが人を赦しなさるお話、私たちが神さまに赦して頂くということがテーマになっています。私たちが神さまに赦しを求める心が出発点です。「私たちの負い目をお赦しください」という祈りが私たちから湧き出るならば、神さまの方では確実にその過ちをお赦しになる道が用意されている、というのがイエスさまのお約束です。「あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」二千年前にイエスさまが誕生されたのはまさにそのお約束の成就です。


それでも私たちは納得しきれないでしょうか。その次の行に「あなたがたの父もあなたがたの過ちを御赦しになりません」と書いてある、と。やはり赦されないこともあり得るのではないか、と。しかし、私たちは大変な錯覚をしています。イエスさまが仰せになられたおことばの一部を切り取って、聖書が示す真理の全体像から一部を切り取って、そこだけを虫眼鏡で眺めますと、得てしていびつなものが目に映るものです。私たちの目に今いびつに映っているものは何でしょうか。私たちが先に赦さなければ、神さまは続けて赦して下さらない、という順番ではないでしょうか。私たちが先で、神さまが後。しかし、聖書がそのような順番を私たちに啓示したことが一度でもあったでしょうか。私たちが神さまをこしらえたのではなく、神さまがご自身のかたちとして人をお造りになられました。私たちにとって祝福となるものはいつでも神さまが源であられました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」神さまがまず私たちを愛してくださった。その証しにイエスさまが誕生された。これが順番です。愛も正義も、聖さも、公正も、いのちも、そしてそのいのちを豊かにするあらゆる賜物も神さまが源であられるのです。どうして赦すことだけ、私たちから始めるように神さまは御定めになるでしょうか。イエスさまのお誕生は、神さまが愛をお示しになるために先に御手を差し伸べられただけでなく、赦しとは何かをお示しになるために先に御手を差し出されたみわざなのです。神さまが先手を打たれた。これがクリスマスです。クリスマスを祝う、とはその神さまの始祖のみわざを感謝することに他なりません。神さまの方からスタートを切ってくださったことを喜ぶことです。



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