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アドベント④「私たちの主イエス・キリストの父なる神」

聖 書:コロサイ1章3、9〜15節


今朝は先週に引き続き、神の御子イエスさまに心を傾けましょう。先週はイエスさまのお姿を仰がせて頂きました。今朝は使徒パウロの祈りに耳を傾けながら、父なる神さま、イエスさまをお遣わしになられたお方に心を傾けるように導かれています。パウロはこの手紙の冒頭で感謝の祈りを献げています。

「私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。」

神さまのことを、「私たちの主イエス・キリストの父なる神」とお呼びしています。この手紙を読み進めるならば、私たちもまた、イエスさまがお告げになられ、それから2000年の間、教会を通して伝えられてきた福音に耳を傾けることになります。その福音が私たちに説き明かす神さまのお姿は、何よりもまず「私たちの主イエス・キリストの父なる神」であられます。イエスさまがそのご生涯を通して、そして今もなお神の右の座にお着きになって、私たちに明かしなさる「御父」「アバ父」こそが私たちの神さまのお姿なのです。私たちが神さまを信じて日々を歩みますときに、いったいどのような神さまを私たちが信じているのか、私たち自身自問しますし、身の回りの人々も関心を示すのです。とても大切な問い掛けですし、神さまを信じようとするならば、何にについて知ったり、理解しようとするにしても、必ず辿り着く問い掛けです。

使徒パウロは手紙の冒頭の祈りの初めに、「私たちの主イエス・キリストの父なる神」を仰いで、その答えをイエスさまに見出すように、と諭して福音を語り始めるのです。クリスマスの節期、私たちにひとり子を与えてくださった父なる神さまを仰ぐ眼差しを与えて頂くことが今朝の始点です。

9節からパウロは教会のために、その神さまに祝福の祈りを献げております。それらの祈りの中から、主イエスさまの父なる神さまがどのようなお方であられるのか、3つほど整理して取り上げてみます。


1. 私たちを満たす神の豊かさ(9節)

まずは9節。「どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。」

使徒パウロが教会のために祈り願っていることの第一は、教会が「満たされる」ことです。いっぱいになることを祈っています。それだけに神さまは豊かな方であることをパウロは知っているのです。教会が何で満たされることを祈っているかと言えば、今朝お話を始めますときに触れたことに戻りますけれども、「神のみこころについての知識」です。神さまはどのようにお考えになっておられるのか、そもそもその神さまはどのようなお方でいらっしゃるのかについて、教会の兄弟姉妹たちの理解が豊かにされ満たされるように、と期待を持って祈っています。迎えます新しい年、私たちが踏み出す信仰の一歩一歩がその都度神さまの豊かさへと導きますように、期待しながら祈るものです。


2. 私たちを育む神のいのち(10節)

次の祈りは10節、「また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。」

何を期待して祈っているかと言えば兄弟姉妹が、教会が「実を結び、成長しますように」。どちらもいのちあっての物種です。これもまた私たちの神さまの大いなる特色です。主イエスさまの父なる神さまはいのちに溢れておられるのみならず、いのちの源であられるお方です。

それこそイエスさまが飼い葉桶のみどりごとして誕生されたことがそのことを象徴しています。再びヨハネですがイエスさまのことを「この方にはいのちがあった。」と紹介しています。そしてこのイエスさまを信じて受け入れた人々についても「血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれた[いのちを得た]のである。」と書き記しております。神さまから頂くいのちは心臓の鼓動によって保たれる生命だけではなく、私たちのうちに溢れるいのち、聖書はしばしば「永遠のいのち」と言い表している、その種類のいのちがイエスさまを信じるときに与えられ、育まれて成長し、多くの実を実らせるのです。


3. 私たちを強める神の栄光【光】(11〜12節)

最後に11〜12節のお祈りを御読みします。

「神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」

多くのことばによって献げられている祈りですが、整理しますと「神さまの栄光によって教会が、兄弟姉妹が強くされますように」という祈りだと言えます。

人は支配されることに大概抵抗を覚えます。権力や圧力で押さえつけられることを嫌う傾向があるからです。その権力に対して信頼が薄ければ尚更です。しかし聖書が神さまの支配について告げるときには力による抑圧を意味してはいません。神さまがその御力の限りを尽くして私たちについての責任を担ってくださることを意味します。神さまが、私たちの必要に応じて、私たちの弱さに応じてご自身の際限のない御力によって私たちを強めてくださることを、使徒パウロは期待をして祈っているのです。

神さまのみこころが知りたいのならば御子イエスさまをご覧なさい。イエスさまがそのように私たちに現れてくださったのがクリスマスの出来事なのです。



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