アドベント③「神のひとり子、御子イエスさま」
聖 書:ヨハネ3:16〜21
今朝もご一緒にクリスマス節期の礼拝を御献げすることができて、心から感謝しております。今年のクリスマス、私たちの教会ではイエスさまの誕生について「家族」というイメージから聖言をお読みしています。イエスさまは人の家族の麗しさ、その絆、家族の不器用なところもよくご存じで、それでもご自身の家族に私たちを招き入れておられる。その家族の始まりがクリスマスの出来事なのです。またイエスさまは家族の中で長男のようなお立場であるようにお話になられ、私たちはそれで教会でもよくそのようにイエスさまを仰いでいるのだ、ということを学びました。私たちの先をいつも進んで、私たちのために足跡を残してくださる長子でいらっしゃると学びました。
今朝は今ひとつの家族の一面を見せて頂こうと導かれています。マリアやヨセフが両親の家族とはまた異なる、神さまと御子というイメージについて聖書は私たちに説き明かしています。その代表的な聖言です。きっと聖書の中で一番よく知られている聖言でしょう。ヨハネ3章16節。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
ここでイエスさまのことが「御子」と紹介されています。これは神さまとの繋がりで使われるお立場です。ですからイエスさまが「御子」と呼ばれているときにはだれかとの血縁関係でそう呼ばれているわけではなく、ですから「母」はだれになるのだろうというような考えに脱線しないように、ただもちろん「父」「子」というイメージが用いられているからには、血縁関係の父・子と重なるところもあるはずで、今朝はそこに目を留めながら、イエスさまがどのようなお方なのか読み取りたいと思うのです。
1. ひとり子としての御子
まず私たちの目に留まりますのは、御子イエスさまが「ひとり子」と紹介されているところです。これは決して「一人っ子」という意味ではありません。ひとり子とは「この世界でたった一人しか存在しない唯一無二のお方」という意味なのです。ユニークなお方、同類がいないということ、代わりが務まるものが他にないということ。これはですから言い換えますと、私たちが想像したり、把握したり、イメージしたりする枠をはるかに超えたお方、ということでもあるのです。
私たちは容易にイエスさまのことを分かったことにしてはならないのです。それはあまりにももったいないことなのです。私たちはイエスさまについて知ることのできる世界がいくらでも広がっているのです。神の御子と呼ばれるお方がどのようなお方で、私たちとどのような関わりがあるのか、そのことで私たちにどのようなことがもたらされるのか、私たちの想像や想定をはるかに超えた豊かな恵みの世界、祝福の世界が広がっているのです。御子イエスさまが「ひとり子」であられるということに込められている可能性に私たちは大いに期待をするように招かれているのです。今年のクリスマスを機に新しい年、教会の礼拝にお出かけになる習慣を新しくお加えになることをお勧めします。そして御子イエスさまをひとり子の神とお知り合いになって頂きたい、心から願っております。
2. 神から遣わされた御子
さて、今お読みしました段落の中で御子について、ひとり子であることと共に、この御子を神さまが遣わしなさったということも繰り返し告げられています。これもまた御子イエスさまの特色です。イエスさまがクリスマスに誕生されたという出来事は神さまの側からの見方で言えば、神さまが御子イエスさまをお遣わしになられた、というのがこの段落が告げている要点です。
それでどうして御子が遣わされたのか、一つはっきりとしていること、それは神さまが実に、世を愛されたという真実です。神さまについて御子イエスさまについてこれからいくらでも深掘りしていくことができますが、どこからどのように掘り深めていくにしても、必ず汲み出せる泉があるとすれば、それは神がこの世を、私たちを愛されたという事実です。その愛を私たちにお示しになるために御子イエスさまが遣わされた、ということがここで明らかにされています。私たちは神さまに愛されている、ということについて思いを巡らせるように、そしてそのことを信じるように招かれているのです。その手掛かりが、外でもないひとり子の御子イエスさまなのです。イエスさまがお語りになったこと、なさったこと、その一つ一つが手掛かりとなり、神さまが私を愛してくださっている証詞になる。そのことを是非体験して頂きたいのです。
3. 光に例えられる御子
御子イエスさまについて、もう一つ、そしてこの段落の後半部分のほとんどを占めておりますのは、御子を「光」に見立てた説き明かしです(19節から)。御子が遣わされたことと、光が世に来たこととが重ねて描かれています。ところが肝心のこの世が、またこの世の人々がまるでこぞって光を好まず、光の方に向かわず闇を愛した、という残念な姿が描かれています。人々が光を避けたのは、光が人の行いを明らかにするからです。その行いが悪であれ善であれ、偽りであれ真理であれ、光はそれを照らして明らかにする。御子イエスさまは人の姿を、私たちの本当の姿を明らかにしてくださるお方なのです。明らかにされたその姿が邪悪ならば、神さまはその人を罪とその先にある滅びから救い出してくださる。明らかにされた姿が善と真理であるならば、漏れなく間違いなく報いてくださる。どちらにしても光に照らされる人には希望があるのです。
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