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『歴史を背負ってお生まれに』マタイ連講[001]

聖 書:マタイ1:1〜17


マタイの福音書は伝統的に主の弟子の一人マタイの名前が記者としてつけられています。この福音書が広く読まれるようになった頃には、これを使徒マタイの筆によるものとして読み、尊び、そして次の世代に渡して参りました。マタイはイエスさまに召されて弟子になったその日から教会が誕生するときまで、そして教会が世界各地に広がるその中で忠実にイエスさまに従い、主のおことばと福音を広げるのに生涯を尽くしました。彼は弟子の一人として生涯、キリストのことばが自らのうちに豊かに住むことを生きた人物の一人でした。

今朝お読みしましたのは福音書の冒頭の部分です。4つの福音書は皆、特徴ある書き出し方をしています。マタイ福音書の特色は系図から始まるところです。この系図は決して詳細に渡るものではありませんが、要点のはっきりした系図で、じっくりと読めばいくつもの語り掛けが聞き取れる系図です。言うまでもなくイエスさまの系図で、厳密に言えば父方ヨセフの系図になっています。ルカ福音書にも系図があって実にアダムまでさかのぼるものですが、マタイはアブラハムから始めています。更に言えば、マタイなりに系図に載る人たちの名前を選んで体裁よく整理しているのが特色です。14人ずつのブロック三組にまとめられています。最初のブロックはアブラハムからダビデ王までの14人、第二のブロックはダビデの子ソロモンからエコンヤという王さままでの14人、そして三つ目のブロックはシェアルティエルからイエスさままでです。厳密に数えるとエコンヤから数えないと14人にならないのですが、マタイとしては3つのブロックをバランスよく並べてアブラハムからイエスさままでの道のりを示しています。マタイは、ただ単に正確なファミリー・ツリーを再現することが目的ではなくて、その中に含まれる人々が誰か、どういう人々が含まれているのかというところに注目をして欲しい、そこにメッセージが込められていると訴えているのです。

第一のブロックを読み始めますと、創世記で学んだばかりの人々が登場します。アブラハムもイサクも、中々子どもが授からなかったことが思い起こされます。またヤコブとレアの間に授かりませんでした。ラケルとの子どもを待ち望んでいた夫ヤコブに葛藤を覚える中、神さまの御顧みがあってレアに授かった男の子たちの一人がユダでした。夫々が子どもを授かるまで祈らされ、忍耐の限りを尽くし、また葛藤を覚えながら授かった子どもたちです。

それからこのブロックの今ひとつの特色は四人の女性たちの名前が含まれているところです。しかも四人とも曰く付きの女性たちです。彼女たちは確かに今時のことばで言えばスキャンダラスな側面があるのかもしれません。しかし、四人ともちょうどひなが雌鶏の翼の下に身を隠すように、神さまの御守りと祝福のもとに身を寄せた女性たちでもあったのです。

私たちのキリストであられるイエスさまは非現実的なほどに欠点も落ち度もない、まるでおとぎ話か神話のような世界から現れた救世主ではありません。私たち誰しもが背負っている歴史をご自身も背負って私たちのもとにお出でになられたのです。過去を背負って生きる私たちの様々な思いをご存知でいてくださる救い主なのです。その上で「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」と私たちを招かれるのです。アブラハムの不安も、イサクの忍耐も、ヤコブの葛藤も、そして女性たちの苦悩や翻弄、屈辱や虐げもあったかもしれません。主ご自身も担われたのです。

二つ目のブロックは王の名前が列記されています。一見するとこの系図のハイライトに思われるかもしれません。ところがよく読みますとこのリストもまた決してそんな輝かしいものではありません。英雄ダビデでさえ彼のスキャンダルからこのブロックは始まります。王の名前と言いましても、旧約聖書の記録を読みますとヨシャファテやヒゼキヤたちのように後代まで高く評価されている王さまの名前もあれば、アハズはマナセのような悪徳王もいます。つまるところ、この王たちのリストはイエスさまの系図に箔を付けるためのものではないのです。ありのままを受け止める他ない私たち人間の性をイエスさまもそのまま担われたのです。イエスさまは私たちと同じありのままの人となって私たちに伴われる救い主であられるのです。そして私たちが神さまに救われるときに、不都合な過去や不適切な歴史を背負っていては見向きもされないのではなくて、私もそのような歴史を背負うことを知っていると仰せになって、私たちを愛し、赦し、癒し、救い出してくださるのです。

さて、三つ目のブロックに記されている名前のほとんどはその素性がはっきりとしません。70年の間イスラエルの民はバビロニアの片隅で暮らします。目覚ましい歴史的な出来事もありません。だれにも注目されない不毛な時期、ここに挙げられる名前が知られていないのも不思議はありません。でも神さまはマタイにそれらの名前を福音書の冒頭に収めさせなさったのです。これが神さまの目線なのです。人の目には取り立てて注目することもない人々、その他大勢の一人にしか思われない、でも神さまは一人一人名前をご存知でご覧になっておられ、記録と記憶に留めておられる。この救い主の御心と御思いから漏れてしまう人はいないことをこれらの知られざる人々の名前は静かに証詞しているのではないでしょうか。マリアから生まれたイエスさまは、そのようなキリスト、救い主であられるのです。私たちはこれから、そのようなイエスさまのご生涯を読ませて頂き、そのようなイエスさまのみわざに目を留め、そのようなイエスさまのみことばの数々に耳と心を傾けて参りたいと思うのです。



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