「預言者たちの結ぶ実」受難節③、マタイ福音書連講[046]
聖書:マタイ7章15〜20節
イエスさまは『山上の説教』の締めくくりに、いくつかのことを群衆にお勧めになります。先週はその第一弾、「狭い門から入りなさい」、今朝の聖言はそれに続く第二弾です。「偽預言者たちに用心しなさい。」ちまたでヨゲンと言えば、未来のこと、まだ起きていないことを人並みはずれた能力を使って言い当てることです。しかし、聖書で言われておりますヨゲンは、予め言う、ではなく言葉を預かる、という字を書きます。神さまから預かったお言葉を預言と言い、それを伝える人のことを預言者と呼んでいます。ですから預言者に偽物がいるとすれば、そこが問われることになります。
イエスさまが山上の説教の締めくくりで、その偽預言者たちに用心しなさいと戒めなさっているのは、彼らは私たちの味方だ、という「なり」をして私たちに近づいて語るものの、その実は私たちの敵であり、特に彼らが貪欲であるのが近づく原動力だ、という戒めです。ただ、ここでイエスさまは偽預言者たちがだれを指すのかを特定なさいません。主の御心は必ずしも山上の説教を耳にした人々が偽預言者たちを特定することではなかったでしょう。
喩えは変わって今度は植物の話しです。茨やあざみから葡萄や無花果の実が収穫できるだろうかと問い掛けなさり、果実を見ればそれが何の木なのかが分かるという譬えです。さらに健康な木は良い実を結び、傷んだ木は悪い果実を結ぶと仰せになられます。そして健康な木が悪い実を結ぶことはないし、傷んだ木が良い実を結ぶこともない、と念を押しなさいました。イエスさまは群衆が結ばれる実を見分けるように諭しなさったのです。健康な木と傷んだ木の例えは、もう一歩厳粛な事実を示します。果樹であるならば、健康な木でも傷んだ木でも必ず実を結ぶ、という真理です。ニセ預言者も本当の預言者と同様に確実に結実するのです。預言を語る者は実を隠すことができないのです。
さて、この譬えで見極めの鍵となっている「実」とは、語る言葉を行動に移すことを指していました。してみますと、山上の説教の中でもこのことは繰り返し語られておりました。「人々があなたがたのよい行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようにしなさい」から始まり「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」、これが律法と預言者ですと結ばれます。偽預言者に対して本当の預言者が際立つところがあるとすれば、行動に表れることばだというところに辿り着きます。
この語り掛けは主の周りに集まる群衆に語られたものであり、マタイを通して初代教会もまた「用心しなさい」と諭され、この御教えは時代を越えて聖書の聖言に託されて、今日の私たちにも届けられています。私たちもまた私たちの時代に合わせて、世の中の価値観、世俗の思想、この世のパターンが教会の中に預言者のように声を上げて来ることを肌身に感じていることです。使徒パウロがローマの教会に、「この世と調子を合わせてはいけません」と戒めましたのは、まさにイエスさまがここで諭された実によって見分けなさい、という御教えの再述です。
主はさらに「良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます」と結ばれます。この聖言はバプテスマのヨハネがイエスさまに先んじて語ったメッセージの結びの聖言でした。ほぼ一字一句違わずイエスさまはあの厳しい宣告を繰り返しなさったのです。偽預言者たちの凄惨な顛末について、強烈な印象を残すメッセージを主は告げなさり、群衆が本当に目を覚まして用心するように、勧告なさったのです。その上でイエスさまはもう一度、ご自身のメッセージを告げなさいます。「あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」確かに偽預言者たちは羊の衣を身に纏って、羊の群れを、主の民を、キリストの教会を欺こうと試みるかもしれません。しかし、羊は羊飼いの声を聞き分け、果樹園の果実を見分けることができるのです。
さて、イエスさまは肝心の偽預言者たちが誰なのかについて一切触れておられません。彼らの特定についてはある種の行き詰まりを認めざるを得ません。しかし一つはっきりと頷くことのできる事実が残ります。それは、この山上の説教を貫いてお一人、父なる神さまの御思いを明らかに預言して止まなかったお方の確かな御臨在です。神の国について、律法や預言者の意義について、善い行いについて、そこに込められている神さまの御心を説き明かされました。小高い山に登られ、主ご自身が「預言」を果たされたのです。
そしてイエスさまは、わたしの結ぶ実を見分けなさいと仰せになっているのです。ヨハネ福音書に主の聖言が記されています。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」その聖言のとおり、主イエスさまは小高い丘の上で十字架に架かり、羊たちのためにいのちを差し出されました。実によって見分けることになります。偽預言者の数々を特定する洞察よりも、たった一人間違いのない預言者を見極めること、そしてその羊飼いに聞き従うことをイエスさまは望まれたのです。
時代や場所が変わればニセ預言者の様相も教えも変わるでしょう。けれども真実の預言者は変わりません。真実の預言者は良い実を結びます。傷んだ実ではなく健全な実を結び、火に投げ込まれて灰と化すものでなく、火によって洗練され純度を高める黄金に例えられる福音を語る預言者。ご自身の身をもって永遠の実を、救いの実を結ばれた良い牧者、私たちの主イエスさまを見分けて進もうではありませんか。羊は羊飼いの声を聞き分ける、イエスさまご自身のお言葉にこの1週間も耳を傾けて参りましょう。
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