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「道を照らす聖言の光」[元旦礼拝]

聖書: 詩篇119:105〜112


「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」

この詩篇は聖書の中で一番、そしてダントツで長い章です。176節まであります。ただ、この詩篇の特色がその長さだけだと思っては余りにももったいない事です。この詩篇は最初から最後まで8節毎の区切りに分けられていて、ヘブル語の壮大ないろはうたになっています。

105節から112節まではエヌに該当する文字から各節が始まる区分です。所謂「な行」です。ヘブル語で詩を楽しめるほど言葉に長けていたらこの詩篇を何倍も楽しむ事ができただろうな、と思ったりします。それでも歌われている内容は十分に伝えられていると思います。

大規模な詩篇ですが、そのテーマはたったの一つです。神さまのみことば、これがこの壮大な詩篇のテーマになっています。詩篇を記した人物、ダビデだと言われますが、彼にとって、そして私たちにとって神のみことばとは何か、様々な角度から歌われています。

今お読みした105節からの一区分にも一つの絵画が描かれていて、その絵は暗い背景に包まれています。けれども救いは一つの光です。ランプの光です。私たちの聖書には「灯火」と翻訳されています。大きなたき火ではありません。しかしその光は足下をちゃんと照らしてくれている。そして前を見るとこれから踏み入る道筋がどれだけ先までか分かりませんが、その光のおかげである程度見える。そのような絵です。

今年ますます聖言を探り、示された真理に聞き従うという生き方を更に追究させて頂きたいのです。


1 闇の中に灯された光

この詩篇が描く絵画をもう少し見て参りましょう。最初に目に留めたいのは灯火でも役に立つような闇です。詩聖は107節で「私はひどく苦しんでいます」と訴え、「いつもいのちがけでいなければなりません」と109節で更に嘆きます。そして彼は「悪者が私に対してわなをもうけた」と警戒しています。

ダビデがここで描いている闇路と重なるような経験を私たちはともに歩んできたのではないかと今実感しています。そして実のところ、これまでも私たちは自分たちが思っているほど物事が見えていなかったのかもしれません。危険に晒されていたのかもしれません。コロナ禍で、私たちは文字通り目に見えない脅威に晒されて、ようやく気付きを与えられたのかもしれません。本当は闇夜を歩いていたのだ、と。そしてそれだけに聖言の放つ光が私たちの頼りになることを味わったのではないでしょうか。この年、私たちが悩まされる事、葛藤を覚えること、誘惑、などなど迫ってくるようなときに、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」と力強く告白し、そのみことばの通りに生かされて生き生きと前進することができたならば幸いです。


2 聖徒の心の喜び(111節)

また、ダビデは神の聖言に対する親しみと愛着を告白しています。彼にとって神の聖言は単に便利なトーチライトではありません。「あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。」改めて読み直しますと彼は聖言のことを色々と言い表しています。106節では「あなたの義の定め」だと言い表し、また108節では苦しみの中で「あなたのさばき」と言い表しています。「義の定め」も「さばき」も神さまの正しさ、正義に期待するダビデの思いが描かれています。日々の歩みの中で不当に扱われ、不条理な目に遭わされ、苦悩する中でも絶望せずに、きっと神さまが私を正しく扱ってくださると望みをかけている信仰の姿勢を読み取ることができます。

109節では「あなたのみおしえ」を忘れないと告白しています。しかもこれは彼がいのちがけの格闘をしている最中です。私たちは様々な次元の格闘と日常の中で遭遇しますが、いよいよいのちがけのものと向き合いますと、私たちもなりふり構っていられません。今までは格好をつける余裕があったり、見栄を張ったり、体の良いことを言えていた人も、いのちがけとなると本当に頼りにしているものが浮き彫りになってきます。ダビデはそのように追い詰められた時に神さまのみおしえが浮き彫りにされてきたと証詞しているのです。110節でも悪意をもって迷わせるような仕業に見舞われても「あなたの戒め」に踏み止まったと証をしています。

そして111節では神様のみことばが「さとし」として描かれています。日々の様々な状況で、特に逆境にあって、神さまの聖言が彼の洞察力となり、わきまえを与えたと証詞しています。そしてこの洞察力には永遠的な価値があることを彼は見出したのです。それがまた彼の心の喜びとなった。そういう意味でも「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です」この告白が私たちのものとなりますように。


3 聖徒の歩みの原動力(112節)

最後に、112節で彼は「あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。」と歌います。ここにダビデの志が記されています。みことばを、その教え、さとし、おきてを生活の中で生きていく事の志です。そのことに心を傾けます、と彼は言います。没頭をする、熱中するという意味合いの言葉です。熱中できるものを見出した人は幸せだ、とよく言われます。そのような側面があると思います。無論コトによっては行き過ぎて生活が本末転倒になってしまったり、後になって心を傾けたことを後悔する場合もあるでしょう。しかし、みことばを行う事に熱中する年となったら間違いありません。「終わりまでも」とダビデは言います。この年の歩みが始まりました。この年の終わりまで、そして私たちに許されている人生の最期まで、みことばを生きる事に心を傾けるお互いであらせて頂きましょう

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