「誓いを立てる」マタイ福音書連講[024]
聖 書:マタイ5章33〜37節
今朝お読みしました段落は「偽って誓ってはならない」という戒めから始まって、「誓い」をテーマにした御教えが語られています。モーセの十戒にも「隣人について偽りの証言をしてはならない」という似た項目がありますが、実際には戒めの内容が少し違います。偽証の禁止ではなくて、偽って誓うことの禁止が今朝のテーマになっています。もとになっている旧約聖書の聖言は、レビ記19章や民数記30章、または申命記23章だと思われます。いずれにしてもモーセを通して神さまが語られた「モーセの律法」と呼べます。
イエスさまの時代、ユダヤ人の間で「誓う」というときに、実は二つのことが含まれていました。一つは、誓いのことばそのものです。今一つの要素ですが、何かを賭けるのです。あるいは何かに賭ける。ですからイエスさまが律法を引用されたときにも、二つのことを一つの戒めとしてお告げになられたのです。第一に誓いのことばそのものが不真実であってはならない、という戒め、そしてもう一つ「誓ったことを主に果たせ」。主の御名にかけて誓うからです。
さてイエスさまは「しかし、わたしはあなたがたに言います」とお断りになられ、一見すると「誓い」そのものを全否定なさって、律法を廃棄なさるようなことを言われます。これまで同様とても強いおことばで語られましたが、主は強いことばで相手を脅かして従わせるためなどではなく、私たちを祝福と幸いにお招きになるために、溢れた熱意をもって語られたのです。
イエスさまは4回「〜にかけて誓ってはいけない」と戒めなさり、その理由を加えてお話になります。天から地、エルサレムから自分の頭。誓いのことばを保証するアイテムとしてより確かなものからランクが少しずつ下がる順番、とでも言いましょうか。新約の時代「神さまにかける」のは不謹慎だとされていましたので、神さまの次に偉大なもの「天」がスタート地点となっているわけです。そして偉大なものから少しずつ手に届くものへハードルを下げているよう。しかしイエスさまはどれも禁じなさいます。
人は約束や誓いを立てるとき、それを保証するために自分よりも信頼できる何ものかにかけます。自分のことばでは説得力に欠けるので、より信頼に値する何かを差し出すのです。古くイスラエル人が主によって誓いを立てたのはまさにそのためです。しかし全能の神さまにかけて誓いを立ててしまうと、その人は全能の神さまが担われる責任を自らの肩に背負うことになります。しかし人はとてもそこまでの力を持ち合わせていません。天地を担うことも、エルサレムの都にしても人の肩には担いきれない重荷なのです。実に人は自身の髪の毛一本さえ操る力がないのです。それなのに、借り物の力で担えない重荷を背負ってはならない、とイエスさまは戒めておられるのです。「決して誓ってはいけません」と語られる主は、その重荷を背負わないようにご自身につき従う人々に告げておられるのです。
ただ、主はさらに「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」
と続けなさいます。つまり、あなたがたの言うことば、約束であれ、誓いであれ、それはそのまま語るように。それに何一つ保証を加える必要はない、何かにかけることはない、と言われたのです。私たちが心から誠意をもって語ることばは、何か信頼性が足らないので何かに賭けて語らなければならないのではなく、その反対に信頼性が足らないのでそもそも語る資格がないのでもなく、私たちは真実をそのまま、然りは然り、否は否で語ることで十分に誓いを立てているのだ、と告げてくださっているのです。少なくとも主イエスさまは私たちの語る真実なことばをそのように受け止めなさるのです。
今朝は教会創立感謝の礼拝を御献げしています。教会という信仰共同体はお互いの信仰の宣誓の上に成り立っています。罪の悔い改めと信仰の告白。すべてはことばです。何の保証もありません。お互いのことば、そしてそのことばの延長線上にある歩みを額面通り受け止めるのです。それは外でもない主イエスさまがそのようにして私たちの思いとことば、歩みと手のわざの一つ一つを重んじてくださるからです。
確かに私たちのことばが実際には頼りない限りです。何があっても貫く覚悟があったのに、事情が変わったり、ときにはうっかりしたり、あるいは誘惑に負けて約束を破ってしまう。そのようなことが起こり得るのが私たちの現実です。そのようなとき、イエスさまは私たちにもう一度こう仰せられるのです。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と真実込めて言いなさい。もう一度悔い改め、もう一度志を立てなさい。その決意をわたしは「はい」として「いいえ」として額面通り期待をして受け止めよう。それがイエスさまのお応えです。それが律法の成就で、神さまの御心なのです。私たちはいつでも主の前に心からの真実をもって告白をし、決意と志を立てて主の前に正義と慈愛に対しては「はい」と頷き、罪と汚れに対しては「いいえ」と退けるように、イエスさまは招いておられるのです。
人にはなかなか難しいことかもしれません。約束が果たされなければ、誰かを傷つけます。でも私たちは皆、その先に何があるかを知らされています。次の「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」です。新たに立てられた誓い、改めて結ばれる約束です。それ以外の道、それ以上のことは「悪い者から出ているのです」。イエスさまはそう仰せになって誓いの項目を締めくくりなさいました。私たちも主の御心を見上げて、新たな一週の歩みを踏み出そうではありませんか。72年目の教会の歩みを始めようではありませんか。
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