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「袋の中の宝」[創世記連講64]

聖書 創世記43章16〜34節

ようやくベニヤミンを連れてエジプトに到着した兄たちは、恐怖に怯えながらツァフェナテ・パネアハ大臣の前に再び現れます。自分たちの未来は真っ暗で、「陥れられて襲われる」さらに「奴隷とされて捕らわれる」、しかもろばと同じ扱いだ。今まさにエジプトの大臣から受けようとしている仕打ちが、かつて弟ヨセフに自分たちがしたことと重なることに、お兄さんたちが気付いたかどうかは明らかにされていませんが、ここまで創世記を読んできた読者にはピンとくる場面です。

そして創世記を通して神さまは私たちにも語り掛けておられるのではないでしょうか。「私は本当にそれほど罪深いのでしょうか?」と困惑する私たちに、この物語は手掛かりを指し示すのです。人は不当に扱われたり、不条理な目に合わされたりしますと、実に丁寧にその痛みや悔しさを振り返るものです。18節の短い文章の中にお兄さんたちの頭の中をよぎった様々なイメージが込められています。そのような姿を観察しながら私たち読者は間違いなく数章前に戻って、兄たちが今肌身に感じている恐怖は、そっくりそのまま深い穴の中に投げ込まれ、自分の殺害を企てる兄たちの声に怯え、ようやく穴から連れ出されたと思いきや、エジプト行きの行商隊に売り飛ばされてしまったヨセフの心境そのものではないか、と想像できる、そのような物語になっています。人が自分の肌身に、また心に苦痛を覚えるときこそ、自分が他の人に及ぼした痛みの深さ、罪深さに気付くときとなり得るのです。

そのような中で彼らは一生懸命に前回袋の中に戻されていた銀貨のことについて故意ではなかったこと、そしてその証しにそっくりそのまま銀を持参してきたことを伝えたのです。そのときにその管理人が返答したことばが23節に記されています。

「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのです。あなたがたの銀は、私が受け取りました。」

今朝は管理人の口を通して語られたこの聖言の中から一点に的を絞って神さまからの語り掛けに耳を傾け、信仰を持って応答したいと導かれています。


1神が隠された宝

兄弟たちに戻された銀貨について神さまが「袋の中に宝を入れてくださった」と言い表しています。銀貨を戻した、お金を入れておいた、ではなくて敢えて宝を入れたと言い表しています。つまりその銀貨が何の用途であるのかということを越えて、その価値について、そして出来事自体の意義についてあなたがたの神さまからのメッセージがある、という意味のことばを返しているのです。

元のことばではマンモンと言って「埋められた、隠された宝」という意味だそうです(ヨブ3:21、箴言2:4、イザヤ45:3、エレミヤ41:8)。ショーウィンドウやガラスケースに収められていて、みんなが眺められるところに飾られた宝石ではありません。土の中に埋められているのか、蔵の中の雑多なものに紛れているのか、見回した程度では見出せないところにある宝、というイメージです。


2見出す宝

兄弟たちの袋に入っていた銀貨は「神さまが隠された宝」、探し出されるのを待つ宝だ、と聖言はその意義を言い表すのです。

お兄さんたちの袋に入っていた宝は探し出すのはさほど難しくはありませんでした。彼らが見つけた時、彼らはそれをみて恐ろしさで震え上がりました。とても神さまが価値高いと言ってそこに秘めなさった宝には見えなかった。そういう意味では彼らはその宝をまだ本当の意味で探り出してはいないのでしょう。

何故神さまは隠されるのでしょう。見つけにくくして、私たちが死に物狂いになってやっと辿り着いたらその根性に報いるため、ではありません。銀貨は蓋を開ければすぐに見えるところに閉まってありました。神さまが宝を隠されるのは、探し出して見つけた者がその宝を本当の意味で自分のものとするためです。この管理人は少し強引にもそのことをお兄さんたちに知らせたのです。「あなたがたの銀(支払い)は、私が受け取りました。」あなたがたが袋の中に見つけた宝は、あなたがたのものです。


3その宝とは?

ヨセフの家の管理人は銀貨について兄たちがそう受け止めるように促しています。しかし創世記の物語は単に銀貨の話をしているのではなく、神さまの祝福と恵みが一貫した主題です。神さまの祝福と恵みの全てを私たちが自らの宝として受け取ることです。

イエスさまが弟子たちに語られた譬え話を思い起こします。「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います」(マタイ13:44〜46)。畑の中で見つけたのか、海に潜って見つけたのか、探して見つけた人が持ち物すべてを手放してその宝を自らのものにしている様子を描いておられます。

私たちの日々の歩みの中に神さまは宝を潜めておられる、そう期待するべきです。それは「天の御国」というおことばに込められている神さまの祝福の全てです。期待を込めて新たな週を迎えましょう。



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