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「良い働きを始められた方は」講師 浜田耕三牧師

第47回 北越聖会礼拝


聖 書:ピリピ人への手紙1章3〜11節


ピリピの教会はパウロの第2回目の伝道旅行のときに訪れたヨーロッパの大きな都市に建てられた最初の教会です。ピリピにはユダヤ人の会堂がなく、この町は異邦人の町だったと言えます。それでも救いのみわざは進められ、最初にリディア(ルデヤ)とその家族が救われて受洗します。続いて牢獄の看守もまた家族共々救われます。彼らが土台となって教会は建ち上がりました。それから約10年後に書き送られたのがこの『ピリピ書』です。その頃には監督や執事を担う聖徒たちも起こされ、パウロの伝道を支援する力も蓄えられ、教会が成長している様子を読み取ることができます。これらのことを踏まえてパウロは獄中からこの手紙を書き送っております。今朝は特に5〜6節を中心に信仰者の成長と福音の拡大についてご一緒に学びましょう


1 救いの始まり

「良い働き」とは救いのみわざを意味しています。私たちが救われ、教会に加えられたということは、神さまによって始められたみわざであることを確認致しましょう。お互いに救いに至る経緯は異なるでしょう。私も大学時代に手にした一枚のチラシがその始まりでした。経緯は多様ですが、共通していますのは、神さまが私たち一人一人に目を留めてくださって、私たちを信仰へと導かれたということです。かつてイスラエルの民が(奴隷生活に苦しんで)叫び声を上げたとき、神さまは彼らの悩みを聞き、痛みをお知りになったと聖書に記されています。その記事を読みますとどれほど神さまがイスラエルの民を顧みておられたのかを見て取ることができます。神さまが事を始めなさったのです。同様に神さまは私たちが知らないうちから私たちに目を留め、私たちのところへ降りて来られ、私たちを教会へ、そして救いへと導いてくださいました。私たちの救いは神さまの始められたみわざです。

 さて、11節に「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて」との祈りが献げられています。人が主を信じたときに、それは宗教を変更したというだけのことではなく、新しいいのちがもたらされたことが意味されています。永遠のいのちが与えられ、主イエスご自身がお住みになられることを意味します。パウロがロマ書11章で異邦人回心者を例えるのに(接木される)野生のオリーブを取り上げ、またガラテヤ書5章には私たちがどのような実を結ぶのかが描かれています。そこにはまた、私たちにいのちがなかったときに結ぶ実についても記述があります。ぶどうの木であるイエスさまに継がれた私たちが結ぶ実がこの「義の実」なのです。私たちは今、永遠の価値のある祝福と結実の中に置かれるようになったことを覚え、いかなることがあってもいのちの源である主イエスにつながり続ける者でありましょう。


2 救いの成長

6節を再読しますと「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」とあります。「キリスト・イエスの日」とは再臨の日をさしています。神さまは私たちをこの再臨のときまで完成を目指して、成長させ造り変えてくださるのです。

 小学生の時分、理科の実験で大根の種を日向と日陰に植えて成長の様子を観察したことがあります。どういうわけか日陰の方が成長を遂げてしまいました。いずれにせよ、大根の種を植えれば大根が成ります。向日葵の種を植えればひまわりの花が咲き、チューリップの球根を植えればチューリップが咲きます。同じように主イエスをうちに宿す私たちは、イエスさまのように変えられていくのです。私たちは生涯にわたってその過程に置かれています。愛がますます豊かになり、大切な事を見分ける洞察が与えられ、純真で責められるところのないきよい存在となり、義の実に満たされるように、と祈られているとおりです(9〜11節)。

 私たちは主イエスさまが与えられ、うちに住まわれているので、主の豊さの中から無尽蔵に成長の道を備えられています。そのすべての恵みを味わいながら歩むのが信仰生涯です。すでに多くの恵みを味わってきましたお互いですが、これから先も無尽蔵の恵みが備えられている事を期待して歩みを継続することができます。この歩みについて二つのことに心を留めましょう。

 一つは、神さまはあらゆる事を通して、特に困難をとおして私たちを成長させなさるということ。29節でパウロが「キリストのために苦しむこと」に言及しているとおりです。彼は実に様々な困難と向き合いながら主の働きに従事してきました。そのことを通して彼は自らの弱さを知らされ、同時にキリストの力の大きさを知ることになったのです。試練に遭う度に彼は神の恵みを体験しました。

 今ひとつは、神さまが私たちの成長のために刈り込みをなさることがあるということ。これは自分自身を知る体験と重なります。救われたとき、私たちは自分自身の本当の姿を知らされたのです。救われた後も神さまは私たちに同様の体験をさせなさいます。きよめの体験はまさにその一つです。私たちが自分の本当の姿に苛まれるとき、それは神さまが私たちに光を与えてみわざを為そうとしている証しです。預言者イザヤがその体験をした記録が聖書に収められています(イザヤ6章)。唇が汚れている、と自覚したイザヤに対して、神さまはその口に触れてくださり、きよめてくださいました。神さまは私たちのために十字架の血潮を備え、きよめるみわざを果たそうと望んでおられます(1ヨハネ1:9)。


3 救いの拡大

救いのみわざは拡大するものです。ピリピの教会も始まりは小さな群れでしたが、成長を遂げ、今ではパウロの働きを支え、福音の働きに与る群れとなったのです。私たちが救われたときにも、身の回りにキリスト者の証しがあったように、私たちもまたこの恵みの器として立てられています。全能なる神は、人を用いなさるのです。かつて主イエスが12人の弟子たちを召され、またパウロを召されたように、今日イエスさまは私たちを用いようとなさっています。5つのパンと2尾の魚を用いて五千人の飢えを満たされた主に、自らを献げる者でありましょう。そして一人でも多くの人々のうちに、またこの「良い働き」が始まりますように、つとめるお互いでありましょう。

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