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「良いことに励む日」マタイ福音書連講[073]

教団創立記念礼拝


聖 書:マタイ12章9〜21節


今朝のカペナウムの安息日はあまり穏やかではありません。礼拝が始まる前から弟子たちは気の毒にも律法違反を咎められてしまいます。イエスさまはご自身が「安息日の主」だと断言なさり、安息を求める人々をお招きになりました。それで主は弟子たちや町の人々と共に神さまを礼拝しようと会堂に御入りになります。ところが会堂の中で再び安息日についての問答が始まってしまいます。宗教家たちは礼拝堂にいた片手の不自由な人を、イエスさまを貶めるための材料にして、「安息日に癒すのは律法にかなっていますか」と質問を投げ掛けます。

この問いの正解は何か。良識的なユダヤ人であれば、安息日に治療をするのは律法違反であり、この人は安息日ではない日に癒してもらえば良い、と答えるようです。ただ安息日でも、人の生死に関わる状況である場合、それから出産の場合は緊急を要するから医療行為を行ってもよい。要はいのちに関わる緊急事態でない限り、安息日に癒すことは「してはならないこと」なのです。

ですから、イエスさまのお応えと、そのときなさったことは、宗教家たちをはじめ、その場に集まっていた人々にとりましても、自分たちの価値観に挑むようなものでした。後日改めて癒したならば宗教家たちの落とし穴に陥ることもなかったのです。しかしイエスさまは躊躇なく、その場でその男の不自由な手を元通りになさったのです。しかもその癒しのみわざについて「安息日に良いことをするのは律法にかなっている」と仰せなさり、進んで安息日の意味を明らかになさいました。主は穴に落ちた羊の例を挙げなさり、たとい生命が危ぶまれるということはないにしても、人のために良いことをすることは律法に適っていると諭されたのです。ただ、そのためパリサイ人たちはイエスさまに対する悪意が前面に現れ始めます。更に衝撃的なことに、イエスさまは彼らの悪意や邪心にお気づきになった上で、大勢の群衆がついて来たので彼らをみな癒された。ここにイエスさまの揺るがない御覚悟が表されています。安息日に良いことをすること、これこそが神さまのお喜びになる安息日なのです。

イエスさまと弟子たちは他のユダヤ人と同様、律法の教えを守っておられました。安息日には会堂で静かに礼拝を献げ、日常の手のわざを全てお休みになられたのです。ただ、なすべき良いことが示されたならば、それを行うことが御心に適っているのです。イエスさまが「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」とお招きになったそのお言葉通りを、安息日にも果たしておられるのです。

さて、マタイはこの一連の出来事を私たちに書き記して、その締め括りにイザヤ書の預言を引用します。今朝は最後にイザヤの預言に耳を傾けながらイエスさまのお姿を仰がせて頂きたいと思います。


1. 神の御心である主イエス

第一にイエスさまは、実に神さまの御心のお方だということを裏付ける預言です。神さまは続けて4つのことをご自身と直に結びつけて告げなさいます。わたしが選んだしもべ、わたしの心が喜ぶしもべ、わたしの愛する者、そして私の霊を授けた。イエスさまがヨハネからバプテスマを受けなさったときのことが思い起こされます。天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られ、天から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」との御声が轟きました。イザヤを通して神さまは再びイエスさまのことを「わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者」と祝福されたのです。そのイエスさまが安息を約束し、良いことをするのは御心に適っている、と保証しておられるので、私たちは信頼してイエスさまのもとに行き、主のくびきを負い、善い働きを担うのです。


2. 謙虚と柔和をまとわれる主イエス

第二にイザヤの預言は、主が謙虚と柔和を身に纏われるお方だ、ということを裏付ける預言です。「わたしは心が柔和でへりくだっている」と告げられた主は、皆を癒しなさったとき、自分のことを誰にも知らせないよう人々に戒め、宗教家たちとの確執を避け、ご自身の知名度を高める機会をも退けなさいます。「言い争わず、叫ばない」。「通りでその声を聞く者もない」とは、主の御口からは荒々しいことばも、刺々しい暴言も全く聞かれない、ということを意味しています。柔和で謙虚だということは更に、役に立たない者を決して御見捨てにならないことも意味します。安息日に皆の病を癒しなさったのも、弟子たちを極みまで愛しまれたのも、そして敵意をむき出しにする人々にも、真理を隠さず、神さまの御心を説き続けなさったのも、その表れです。まさに傷んだ葦を折らず、くすぶる灯芯を消すこともないお方なのです。


3. 希望をもたらす審判者

最後にイエスさまはすべての人に希望を与えてくださる審判者でいらっしゃいます。主が告げなさるさばきは人々を勝利へと導き、そして希望をもたらすものです。繰り返して「異邦人にさばきを告げ」「異邦人は望みをかける」と言われております。イザヤ書の預言でも「島々もその教えを待ち望む」となっています。神さまが既にすべての人を見渡しておられて、ちょうどイエスさまが「彼らを皆癒された」ように、分け隔てなくご自身の正義をお示しになり、悔い改めへとお招きになり、癒しと回復を賜り、それどころか新しいいのちを御与えになり、安息をお約束くださり、その先に希望を与えてくださることを宣言するイザヤの預言。これこそがイエスさまのお姿なのです。このイエスさまが今朝も私たちとともに歩んでくださっています。インマヌエルとはそう言う意味です。私たちの群れはこの「インマヌエル」というイエスさまのお名前を与えられて生まれ、今日に至るまで歩んで参りました主にある群れです。

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