「聖なる賜物、高価な真珠」[マタイ連講42]
聖 書:マタイ7章6節
先週の聖言同様、一見しますと誰にでも分かるような教訓であるように聞こえます。価値のあるものを、その価値が分からない人に与えても無駄だ、という戒め。確かにそこにも真理はあります。しかしここで私たちは先週と同じことを思い起こさなければなりません。イエスさまが群衆を前になさってお話になられた山上の説教は、福音の世界についてのメッセージなのです。そのことを念頭において私たちはイエスさまのおことばに耳と心を傾けることが肝要です。聖なるものを犬に与えない、真珠を豚の前に放り投げない、これらは神の国のどのような側面を指差しているのでしょうか。
これらはいわゆる格言、あるいは箴言と言われる種類のおことばですから、あまり前後に解説や説明がついていません。短く言い表しますから、そこで使われることばは文字通りの意味も然ることながら、そこに象徴されている意味合いを汲み取ることが大切になってきます。
主の格言に登場する動物は犬と豚です。そしてその対極には「聖なるもの」と「真珠」があります。すぐに見当がつきますのは、聖なるものも真珠も、何か尊いもの、価値のあるものを象徴しているなということです。そして犬と豚はどちらもその尊さや値打ちを弁えない生き物として登場させられています。
新約聖書の時代、犬というのはあまりよいイメージの動物ではありませんでした。所謂野良犬です。ペテロの手紙に「犬は自分が吐いた物に戻る」ということわざが紹介されていますが、そういうイメージです。それから豚もそうです。ユダヤ人の間では旧約時代から豚は「汚れている」ので食べることも許されない、そんな動物でした。ペテロの手紙には豚についてのことわざもあって「豚は身を洗って、また泥の中を転がる」と言うのが紹介されています。四字熟語に玉石混淆というのがあります。玉は宝石、石はいしころ、価値はまるで違うのにごっちゃに混ぜてしまう残念な人を指しますが、豚は神聖なものごとと俗なもの、清潔と不潔の違いが分からない、というイメージです。
さて、動物たちの状況が分かったところで、この格言の中核となる宝に注目を移しましょう。ここには「聖なるもの」そして「真珠」が描かれています。「聖なるもの」が何を指しているのか諸説ありますが、どれもしっくりこないのが現状です。聖餐式のパンと葡萄液(しかし、山上の説教の段階ではまだ聖餐式は存在しない)、福音や神の国(しかし、福音を伝える価値もない人がいるのか)、それとも「犬」はだれであれ、福音に耳を傾けない人々を指しているのではないか、という説も試されました。しかしイエスさまご自身は何度も繰り返し福音を頑なな人々に語り続けなさいました。十字架の上に掲げられても、福音を犬や豚に差し出しなさったことになってしまいます。
ここにきて私たちははたと気付かされるのです。イエスさまはこの箴言を通して犬や豚が誰なのかを特定するためにお話になられたのではないこと。イエスさまがお見せになっておられるのは、私たちの手のひらです。私たちの手には「聖なるもの」が握られているのです。ユダヤ人のイメージで言えば、彼らが日常の中で手にする「聖なるもの」と言えば、安息日や祭りのときに神殿に携えていくいけにえです。動物や小鳥、穀物の場合もあるでしょう。何であれ、神さまにお献げするために、選り分けて注意深く育てた生業の産物です。神殿の祭壇で焼かれた牛や羊は、全焼のいけにえであれば、全てが灰になり何も残りませんが、大抵の場合は聖別された祭司たちが「聖なるもの」として食べます。そのように民の祈りが込められた肉を、あろうことか野良犬に食べさせるなどということはまずあり得ません。民の信仰と献身は、「聖なるもの」としてこの上なく大切に取り扱われ、間違いなく神さまにお献げするのです。
私たちは今日いけにえを献げるようなことはしませんが、神さまに「聖なるもの」を献げる信仰は変わらずに続けています。私たちの生活そのものをいけにえとして神さまにお献げし、私たちの思いや思想を「まず神の国と神の義」に合わせて追い求める、そのような生き方をイエスさまは「聖なるもの」だと言われて御手に受け入れなさいます。その「聖なるもの」が私たちの手から滑り落ちて野良犬に喰われてしまうことのないように、ましてや私たちが敢えてせっかくの献げものを祭壇に上げることを拒んでしまったならば、それは決して何か他の形で役に立つというようなことはない、と戒めておられるのです。「聖なるもの」を聖なる方に、私たちの天の父にお返しするイメージをイエスさまはお見せになっています。
さて、「真珠」はこの箴言の中では「聖なるもの」の今ひとつの側面を表しています。真珠は新約聖書の中に何度か金や宝石と並んで陳列されています。イエスさまの譬え話の中でも、高価な真珠を見つけた商人は持ち物すべてを売り払ってでもそれを買い付ける、とお話になっておられます。相当価値高く値積もられているのが真珠です。厳密に言うと主は「あなたがたの真珠を豚の前に投げてはいけません」と告げられました。群衆の中に実際に真珠を所有している人など数えるほどしかいなかったでしょう。あなたがたの、と言わなければ所詮他人事なのです。しかし彼らの掌にあるものは「聖なるもの」そして天の御父の目には真珠なのです。
このお言葉を語られたイエスさまがやがて文字通りご自身を十字架に、「聖なるもの」として差し出され、それは「高価な真珠」として神さまの御手に受け入れられました。私たちの救いの道はそのようにして開かれました。新たな一週もこの壮大な聖なるものの世界、恵みの世界に浸りつつ歩みましょう。
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