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「罪人を招き、罪人に招かれるお方」上半期感謝礼拝 マタイ福音書連講[057]

聖書 マタイ福音書9章9〜13節


今朝お読みした場面も先週と同じカペナウムの町中での出来事です。しかも中風の男が癒され、赦された、そこからイエスさまは進んで行かれた先での出来事です。マタイという人が収税所に座っているのをご覧になられます。私たちが今学んでいます「マタイ福音書」の記者が、自らの救いの証詞を書き記しているのです。これまでもマタイの記録は大事なところを強調するために、そうでないところは割愛する傾向性がありましたが、自分の救いの証詞までもが簡潔明瞭です。第一にマタイは収税所に座っていたという事実です。マタイは罪人の道に立ち、その座に着いていた。しかし、第二に主イエスがそのマタイをご覧になられて、「わたしについて来なさい」と招かれたのです。罪の世界に腰を据えていたマタイを見出して、ご自身に従うように招かれたのです。イエスさまは罪人をご自身の下に招いてくださるお方だということを私たちは知らなければならないのです。そして証詞の三つ目の要点は、立ち上がってイエスさまに従えば救われるという応答の尊さです。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてもよい」と言われるイエスさまをお頼りして従うならば救われるのです。主イエスがお招きになるときに立ち上がって従うこと、これがマタイの救われた経験なのです。


さて、ここからさらにイエスさまはマタイの家で宴の席にお着きになります。そして驚くことに、その宴には取税人たちや罪人たちが大勢、一緒に食卓についていたのです。ところがこの宴を見た宗教家たちが一斉に苦言を申し立てます。彼らの苦言は伝統的な教えに基づいたものでした。神を敬う善良なユダヤ人は、神さまの御前に己のきよさを保つために、汚れた物や人々を徹底的に避けなければならず、取税人と罪人たちは殊更に要注意でした。取税人は異教徒ローマにおもねる裏切り者、罪人とは必ずしも犯罪者という意味ではなく、モーセの律法に従順に従うことをしない人々を指していました。善良なユダヤ人は汚されることがないように、と付き合わないように指導されていたのです。

宗教家たちの苦言に対するイエスさまのお応えは、そのままマタイの救いの意味です。イエスさまはご自身を「医者」に例えて、この家の中で食事の席に着かれた意味を諭しなさいました。難しい道理ではなく、これには宗教家たちも反対はしません。そこでイエスさまは旧約聖書から一つ聖言を引用します。「わたしが喜びとするのは真実の愛(あわれみ)。いけにえではない。」イエスさまは12章でもこの聖言を引用なさっています。もともとはホセアという預言者を通して、形骸化してしまった神の民の宗教を、元に戻して、真実の愛に溢れた神さまとの交わり、そして人々の間の分断の回復を思い描かせる神さまからのおことばでした。イエスさまは神さまが何を求めておられるのか、ホセアの預言に重ねるようにして、いけにえと真実の愛を天秤にお掛けになり、真実の愛が優っていることを明らかにされます。そうすることでいけにえを退けなさいました。「いけにえ」は文字通り動物や穀物の献げ物を意味しているのではなく、いけにえの制度に象徴されるような、ユダヤ教の伝統や教えであって、この場面に当てはめるならば「罪人や取税人」を汚れていると言って退け、彼らと親しくなるならば、あなたも汚れるとする彼らの価値観を、真実の愛の対極に置かれたのです。しかしイエスさまらしさはその直後です。イエスさまは宗教家たちを断罪なさらず、むしろ「行って、学びなさい」と諭されます。このフレーズは当時のラビたちが、大事な弟子たちや教え子たちを諭す文句なのです。イエスさまはパリサイ人たちが、「真実の愛」を喜ばれる神さまの御心を悟ることを心から願っておられるのです。ホセア書ではこのお言葉に続けて、「全焼のささげ物よりも、神を知ること」を神さまは喜ばれる、とあります。神を知ること。イエスさまもまた、「真実の愛」を喜ばれる神さまを、そして病人の必要に応じた医者であるわたしを知るように、望まれたのです。


さて、苦言を申し立てる宗教家たちを諭してイエスさまは、再び本題にお戻りになります。病人が必要としているのは医者。でも今あなたの目の前で、罪人が必要としているのはこのわたしなのです。「わたしについて来なさい」という招きを彼らは必要としている。そのためにわたしは彼らの食卓に招かれ、彼らの問い掛けや訴えに応え、彼らのわずらいを担い、彼らの病を負う。


イエスさまの招きに応答するとは、ですから「私は正しい人ではなく、罪人」なのです。私は正しい、と唱える間はイエスさまのお招きに応じる道理がありません。もちろん私が本当に丈夫ならば、それで宜しいのかもしれません。けれどもイエスさまは静かに、あなたは本当に丈夫ですが?問われるのです。「真実の愛」とはどういう意味か、行って学びなさい。


マタイは間違いなくそう告白したのです。イエスさまが私を招いたのは、私が罪人だからです、と。主イエスは、わたしが来たのはあなたを招くためだ、とお声を掛けてくださいました。それで私は立ち上がり、癒され、罪を赦されました。この方はまことに罪を赦す権威をお持ちでいらっしゃいます。


「真実の愛」とはどういう意味か。マタイもまた、行って学び、そしてこの福音書を御霊に導かれて書き記したのです。マタイにとって「真実の愛」とは福音であり、福音に生きる自分なのです。罪人を招き、わたしが来たのはあなたを招くためです、と語り掛けてくださる主イエスさまを指し示すことなのです。新しい一週を歩み出そうとする私たちに今朝もイエスさまは問うておられます。真実の愛とはどういう意味か、行って学びなさい、と。



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