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「私たちの律法(おきて)」マタイ連講021

聖 書:マタイ5章17〜20節


今朝からいよいよ山上の説教の本題に踏み込んで参ります。ここからのキーワードは「律法」だと言えます。堅苦しい印象があるかもしれませんが、それはあるいは、律法本来の性質や意義を見誤っているからかもしれません。実際主イエスの時代にも人々の律法理解と本来の意味との間にズレが生じてしまい、そのズレが福音にとって致命的な妨げとなっていました。

律法は決していわゆる掟(おきて)の一覧表ではなく、人が幸いを得るために神さまから頂いた賜物でした。その象徴的な出来事がモーセの十戒の賦与。そのとき以来モーセの十戒のことを律法と呼び、さらにモーセ五書全体を指して「律法」と呼び、親しむようになります。ときには旧約聖書全体を指して「律法」と呼ぶこともあります。旧約聖書の中にはまさに律法と呼べるような部分もあれば、そう呼ぶと違和感を感じるような部分もありますが、どの部分を切り取りましても、そこには神さまからの御思いが込められていて、私たちはそれを拝読しますと、その御心に従うか否かを迫られるような聖言なのです。そういう意味でも「律法」と呼ばれるに相応しい書物なのであり、ユダヤ人にとりましては生活と信仰の枠組みとでも言えるものなのです。今朝お読みしました聖言の中にはその律法に対してイエスさまがどのようなお立場でいらっしゃるのか、そして群衆に加わっている人々、今朝お読みしました私たちも含めて、が律法に対してどのように向き合うことが幸いなのかを真っ直ぐにお話になられたところです。


1. 律法を廃棄するためでなく成就するために来臨(17節)

律法を成就する、とは少し分かりにくい表現かもしれません。一つには律法、つまりそのおきてやルールを廃棄する、もはや無効だとすることとは反対のことで、そのおきてやルールは今でも有効で、さらには守られなければならないということを最大限に強調することだと言えます。

人々の日々の生活と信仰を考えますときに、人々が神さまから頂いたと言って重んじている律法を自分の都合や考え方でなくしてしまったり、変えてしまったりすることが、決して人々の益になるわけではなく、むしろ混乱をもたらし、特に神さまとの関わりに歪みが生じてしまいます。それでイエスさまは律法が本来の意味で守られることを目指しなさったのです。その御心が「成就する」という聖言に込められているのです。


2. 律法は全てが実現する(18節)

イエスさまはまた律法について「すべてが実現します」と仰せになります。これもまた独特のおことばです。律法は単に、守り従ってこなす指示書ではなくて、守り従うことで形作られる現実があるということなのです。律法には神さまの御心が込められていて、人の祝福と幸い、人に対するご自愛と善意の全てが込められています。その一つ一つを実現することがイエスさまの御思いなのです。それでイエスさまはその律法のひとかけらも逃さない、と御覚悟をお示しになられました。「天地が消え去るまで」とは特にユダヤ人の言い表し方で、いつも、いつまでもという意味です。その中に私たちの生活と歩みのすべてが含まれています。律法の一点一画という言い回しは、ヘブル語やギリシア語の文字のことだと言われています。指でページをめくった弾みで霞んでしまうような小さな文字さえも、読み飛ばされることなく、そこに込められている神さまの御心が形を取る、ということを主はお告げになられたのです。

 この背景には、イエスさまが当時の人々の信仰の在り方、特に聖言に対する在り方について、実現するべき神さまの御心が形を成していないという現実があります。その一つ一つに主イエスは目を御留めになり、御心が「天で行われるように、地でも行われ」ることを望まれたのです。主ご自身が実現なさった究極の御心は他でもない十字架による御救いだと言えます。


3. 戒めを破る者、行う者(19節)

しかし律法を成就することは、イエスさまお一人でなされるみわざではありません。つき従う人々にも託されたことです。しかも人目には取るに足らない「最も小さいもの」だと思われる戒めも、神さまの御心を汲み取って守るならば、驚くほど豊かに報われるのです。

イエスさまはさらに律法をご自身につき従う人々の間でお互いに「教える」役割を担う人々が起こされること、召されることを期待しておられます。信仰の決断をして、これまでの闇と罪の世界と決別し、律法を神さまの御心として尊び守り行う歩みに入る人々を御下に引き寄せなさり、「わたしについて来なさい」と招かれるのです。教会ではそのようにお招きになられることを、弟子として召される、と言って重んじています。その中でお互いに教え合い、神さまの御心である律法を正しく弁え、相応しく守るように建て上げる兄弟愛の世界です。そういう意味で私たちは「教会」なのだと思うのです。

20節に「あなたがたの義が宗教家たちのそれにまさっていなければ天の御国に入れない」という厳しい聖言が続きます。イエスさまはご自身に従おうとする人々に対してハードルを高く引き上げておられるのではありません。神さまの正しい御心に対する関心がどれだけ高くなったとしても、その熱意や誠実さが十分に報われない、というようなことは決してないという力強いお約束なのです。どれだけ没頭しても、それに十分に見合う報いを神さまは用意していてくださる。それがイエスさまのお約束です。次週から具体的に主は聖言を取り上げなさってどのように神さまの御心を読み取るのかを教えてくださいます。期待をしてお互いの心を傾けようではありませんか。

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