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「私たちの弱さを負われる救い主」マタイ連講[052]

聖 書:マタイ福音書8章14〜17節


8〜9章に掛けて9つの出来事が収められておりますのを、今私たちは一つずつ追っているところです。ツァラアトに冒された人のきよめに目を留め、百人隊長のしもべの中風の癒しを学び、場面はさらに進みます。カペナウムの町にて「それからイエスはペテロの家に」御入りになります。家に入るとペテロの姑が寝込んでいるのをご覧になられたのです。

 その先についてはあまり詳しく経緯や様子は描かれていません。ただ一つ、イエスさまが彼女の手に触れなさったので熱が引いたことが記録されています。ツァラアトの男のときもそうでした。イエスさまは「わたしの心だ」と仰せになって手を伸ばして彼に触った、と記されていました。ペテロの姑さんの熱病が癒されることもまた「わたしの心だ」ということをペテロも周囲の人々も、私たち読者も容易に見て取ることのできる仕草です。そしてこれまでと同様、癒しはたちどころに果たされました。イエスさまは病む人をご覧になり、手を差し伸べなさってご自身の御心をお示しになります。あなたが癒えること、あなたがきよくなること、あなたが赦されることはわたしの心だ。あなたが幸いを得ることはわたしの心だ。そう仰せになって御手を差し出しなさる、触れてくださるのです。

 さて、夕方になると人々はみもとに大勢押し寄せてきます。人が1日の営みを終えて、ようやく家に戻って1日の疲れを癒すようなときに町中から人々が集まり、イエスさまに助けを求めたのです。そしてイエスさまは「みな」癒され、「イエスはおことばをもって」悪霊を追い出し、病気を癒された。おことばに病が従い、今目の前で悪霊たちもまた従うのです。イエスさまの圧倒的な権威を町中の人々が目の当たりにし、私たち読者もまた再びイエスさまのおことばに込められた権威を目の当たりにするのです。イエスさまは人々の癒しや救い、幸いと祝福を願われるだけの心優しいお方ではありません。人々の癒しと救い、幸いと祝福をもたらす権威をお持ちの心優しいお方です。私たちは信仰を抱いて、期待をしてその癒しと救い、赦しときよめを頂くことが幸いへのスタートなのです。

 さて、マタイはここで聖書を開きます。そしてイザヤ書の聖言を読み上げます。

「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」

「しもべ章句」として親しまれている預言の一つです。特に53章では神さまの御腕のようなこの器が、人の想像や期待とは著しく掛け離れた様子だったので私たちはその方こそが救い主だと気付きもせず、むしろ神さまから呪われた哀れな人として見下してしまっていた、という内容なのです。しかし、そのように見るも哀れな姿をお取りになることこそが神さまの御心であって、どういうことかというと、本当は私たちが抱えている惨めさ、私たちに纏わりついている汚れや罪、私たちの言ってみれば「病や弱さ、煩い」をその方が担い、背負っている、という預言。まさにイエスさまのご生涯、特に十字架に至る歩みを見事に描き上げた預言だということに、新約時代の聖徒たちは気付かされ、しばしば引用された聖言です。イエスさまがツァラアトの男を癒し、百人隊長のしもべの中風を癒し、ペテロの姑の熱を取り除き、家の戸口に迫る大勢の人々の求めにお応えになって悪霊を追い出し、皆の病気を癒されたみわざを振り返りながら、イエスさまは実に聖書を通して約束された通りの救い主であられるのだと頷いた、マタイの信仰告白なのです。

「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」

「煩い」と訳されていることばは元々「弱さ」という意味のことばです。人の弱味、その人を弱くしている元凶を取り去ってくださる方として、神さまが聖書にお約束してくださった方が、今カペナウムの町に入り、ペテロの家に入り、そのお約束どおりのみわざを繰り広げておられる、そのように私たちに説き明かしているのです。二千年前、百人隊長やペテロの姑が直に触れたイエスさまの御心、彼らが耳にし、目にした権威を、初代教会の兄弟姉妹たちは同じように信仰を働かせることで経験するのです。彼らが身に帯びる弱さをイエスさまによって取り除いて頂く経験です。そして時代を越えて、国境を越えて今日の私たちもまた、同じように聖書の聖言をもって、「私たちの煩い、私たちの弱さを担い、私たちの病を負っ」てくださるイエスさまのみわざを経験するように、今朝も問い掛けを頂いているのです。私たちは自らに問い掛けるときを迎えているのです。私の弱さとはなんだろうか。私の煩いとは何なのだろうか。主イエスさまに担って頂きたい、背負って頂きたい痛みは何だろうか?

 ギリシア語の旧約聖書ではこの預言を「彼は私たちの罪を担い、私たちの痛みを負った」と訳しました。翻訳としては少々行き過ぎですが、聖書のメッセージとしては見事に的を射抜いた翻訳ではないでしょうか。人の罪ほど人を煩わせ、人を弱くする病はありません。イエスさまは私たちの罪を担い、私たちの咎を負ってくださった。そしてイエスさまの戸口に集まる人々を皆癒される、赦し、救われるのです。

 この朝、マタイを通して神さまが聖言を私たちに語り掛けておられる。あなたがイエスさまの前に差し出したい煩いは何か。痛みは何か。重荷は何か。それはあなたの罪か。イエスさまは手を差し伸べなさり、私に触れてくださり、取り除いてくださいます。この朝、礼拝から立ち去る前に、信仰を働かせて、主イエスさまに癒して頂き、心に健康を与えられ、幸いを得て、いのちを頂いて新しい一週を迎えさせて頂こうではありませんか。

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