「私たちが信じた福音」(イースター礼拝)
聖書 第1コリント 15章1〜11節
「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
コリントの教会の聖徒たちは様々なチャレンジ、試練の中を通過しています。試練だけに痛みや疲労、不安や失望、混乱や疑問が大いに伴ったことです。そのような中で神さまはパウロをとおして教会を守り、その土台をさらに強めようとなさいます。コリントの教会、またすべての教会について「その土台とはイエス・キリストです」と断言し、兄弟姉妹たちがキリストにある生き方をするように促します。
それで様々なお勧めも佳境に辿り着いた頃、使徒パウロは改めて「兄弟たち」と呼び掛けて、そもそもの福音について基本を確認します。使徒パウロは十字架につけられたイエスさまを掲げてこの手紙を書き始めました。そして彼はこの手紙を貫いて主の十字架を掲げ続け、さらに死なれた主イエスさまが埋葬されたことを改めて福音の真理だと告げています。イエスさまの死がそこまで確かなものでなければ救いの真理とはならないのです。しかし、十字架の死は断じて福音の全てではありません。ですから語り伝えられている福音の中に必ず「三日目によみがえられたこと」が宣言されるのです。このことが私たちの信仰告白の中にあることが必須なのです。いくつか確認をしましょう。
(1)主イエスがよみがえられた、ということは決して世間の特にフィクションの世界で描かれていますように死んだ人が再び蘇生して生き始めた、ということではありません。そのような蘇生も確かに驚くべきことでそう滅多に起こることではありません。イエスさまのご生涯の中で何度か「死人が生き返った」という不思議なしるしが表されていますが、主イエスさまのよみがえりは所謂生命の再生という話ではないのです。例えばイエスさまによって再びいのちを得た人々は、やがて年老いてか、あるいは病などのためにいつか再び死にます。それでも驚くべき出来事であり、理解の及ばないところはあるものの最期のお別れが延期された喜びを大いにもたらしたことでしょう。でも主イエスがよみがえられた、ということは単なる生命の再生ということではありません。
(2)主イエスが三日目によみがえられた、とは全く新しい種類のいのちを得なさったことを聖書は繰り返し説き明かします。そのいのちは驚くような力で人を前に押し進ませて、さらにその力は触れる人々にまで及ぶような力なのです。よみがえられたキリストは次から次へとご自身の弟子たち、主に従ってきた人々に現れなさったのです。しかも古株の弟子たちだけではありません。イエスさまがよみがえられてから信じるようになった人々にも現れなさり、数えられるだけでも五百人はよみがえられたイエスさまに出会ったという証言を得ることができるのです。そしてここが急所なのですが、パウロ自身にも現れてくださった。そういういのちを得てよみがえられたのです。そのパウロは今やよみがえられたイエスさまと出会った他の人々と同じように、自分自身が新しいいのちを受けて突き進むようになったのです。確認するまでもありませんが、パウロもペテロもヨハネもヤコブも、だれもまだ死んでいません。それでも既によみがえりのいのちを得ているのです。その証拠に、悲しみと恐れと絶望の中隠れていた弟子たちが今では数千人を前にして、同胞の迫害にも帝国の圧力にも屈せず福音を語るように変えられたのです。義憤と嫌悪感に任せて多くの聖徒を追い散らし、捕え、ときには殺害までも辞さなかったパウロが、今ではその人々に仕えるようになって、かつて自分が施していた迫害を今では受ける身になっている。主イエスさまのよみがえりは、全く次元の異なるいのちなのです。聖書はそのいのちのことを「永遠のいのち」と言い表しています。
(3)そして10節でパウロは繰り返しこの状況について「神の恵み」と言い表しています。新約聖書の他の聖言をお読みしましても、イエスさまのよみがえりについてしばしば、主がご自身のお力で復活を遂げられたというよりは、神さまが大いなる御恵みを以っていのちを与えなさった、というイメージになっています。使徒パウロがここでコリントの聖徒たちと確認をしておりますのは、恵みの神さまこそがいのちの源であられるという点です。イエスさまのよみがえりはまさにその真理を私たちに露わにする奇跡です。パウロはそのいのちを無駄にすることなく、「私に対するこの神の恵みは無駄にはならず」と証詞しています。人はどのようにして神さまの与えてくださるこのいのちに報いることができるのか。それはそのいのちを信じて受け入れること、そして頂いたいのちを存分に生きる事です。そのときに私たちはパウロのように、どのように生きるにせよ、神の恵みに押し出される実感を確かめることです。10節後半「働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのです」とはとても強い告白です。言うまでもなく私は怠けていました、ということではありません。彼がどれだけ教会に仕えていたのかはコリントの兄弟姉妹たちが直に目撃しているのです。しかし、その奉仕や働きの一つ一つについて、これも神さまの恵みに押し出して頂いた、神さまから頂いた力によって果たすことが許された、神さまから頂いたいのちに生かされて実を結んだ、と証詞をするのです。神さまはいのちの源であられます。そしてその命が豊かに生かされる原動力であられます。主イエスさまはその初穂としてよみがえられたのです。そして今も生きて、神さまの右の座に就かれ、尊いみわざを進めておられるのです。教会を生かし、教会に連なる私たち一人一人を豊かに生かしておられるのです。
👈 再任のお祝いに教会の皆さまから頂きました!
Comments