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「私が辿って来た年月」教会総会準備講壇③、創世記連講69

聖書 創世記47章1〜22節


「私の父と…彼らの所有するものすべてが、カナンの地から参りました。今、ゴシェンの地におります。」一族がエジプトのどの辺りに寄留するのかを考えた時に、最善だろうという候補地がこのゴシェンでした。一族にとって一つ大きく前に踏み出す瞬間です。これまで住み慣れたカナンの地を離れ、新しい地に移り住むにあたって彼らはファラオと面会をした、というのが今朝の物語です。そしてこのエピソードの中で神さまが私たちにお見せになろうとしていますのは、「生きてきた年月の振り返り」です。1月は例年教会総会に備えて聖言に耳を傾けています。教会総会はまさに「過去一年の振り返り」のときです。今朝お読みした中に、生きてきた年月を振り返る信仰者が二人描かれています。一人はいうまでもなくヤコブです。もう一人はヨセフ自身です。ヤコブのように「生きてきた年月」が何年かというかたちで振り返っているわけではありませんから、少し読み取りにくくなっています。でもヨセフもファラオを前にして自分のこれまでの歩みを間違いなく振り返っています。


1ヨセフの場合:ヨセフは最初に兄たちの中から五人を連れてファラオと面会し、その結果ファラオは彼らにエジプトが提供できる最善の条件を整えてこの一族を迎え入れることを喜んで提案したのです。ヨセフは兄たちの悪と罪をここぞとばかりに白日のもとに晒したのではなく、却って兄たちが不自由なく快適に過ごすことができるような紹介をファラオにしたのです。これがヨセフの振り返り方でした。何故ヨセフが自らの歩み、特に苦難に陥れた兄たちを前にして生きてきた年月を振り返り、寛大で善意に溢れた値積もり方をしているのか。それは彼が神さまの御心が彼の踏みしめてきた一歩一歩に込められていることを頷いていたからです。神さまが彼の辿ってきた道筋の全てを用いて彼を祝福し、彼を通してこれから大いにその祝福を延長なさることを信じていたからです。神さまを信じる人の辿る道のりは、神さまの祝福をその一歩一歩の中に期待するのです。それなので、辿ってきた道筋にいばらが生えていて棘が刺さっても、悪意や邪心のために不当に扱われても、不条理な評価をされて大損をしても、私たちはそれに押しつぶされ、絶望してしまい、あるいは怒りやうらみをたぎらせて刺々しくなったりせず、ときに勇気をもって正義を示し、ときに慈愛をもって赦し、ときに悪に対して善を報いることができるのです。決して神さまを信じている人々はおめでたい楽観主義者だからではありません。「情けは人の為ならず」自分にやがて戻ってくるから、寛大に振る舞うのではありません。神さまを信じると人間的に崇高になって、成熟するからヨセフのように寛大に振る舞える、とも創世記は記していません。もちろん彼は様々と苦しい経験に揉まれて成長を遂げ、品性も磨かれたことでしょう。でも彼が兄たちに対して善意を心から向けたのは、彼が神さまの祝福に期待していたからです。そしてそのようなヨセフの姿を私たちは読み取りながら、私たち自身も神さまの祝福に大いに期待するように、招かれています。




2ヤコブの場合

ヤコブはファラオを祝福します。これは単なるご挨拶ではなく、生ける真の神は人を祝福なさる方であることの証詞であり、ファラオとその王国が神さまに顧みられることの祈りなのです。

さて、ファラオは「あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか」

と問い掛けます。別段ヤコブの年齢を知りたかったわけではありません。年月はどれほどになりますか」とは丁寧な翻訳です。ファラオがヤコブに聞いたのは「何歳ですか」ではなくて「どれほどのものですか」だったのです。つまりヤコブの人生の長さではなくて、豊かさにファラオは関心があったのです。ファラオはヤコブの人生を振り返ってそこに込められている数多くの宝を覗き見ようとしたのです。

ヤコブはこう答えます。そしてその返答がヤコブの振り返りです。

「私がたどってきた年月は百三十年です。私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」

この返答の中にヤコブの人生の振り返りが込められています。

第一にファラオはヤコブの「生きてきた年月」について聞いて来ました。それに対してヤコブは「私がたどってきた/寄留した年月」と返答をしています。私が語るのは人生と呼べるようなライフ、確立した生活ではなく、寄留者のように辿ってきた歩みです、という答えなのです。これが彼の人生観なのです。

更に彼は続けて「私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません」と言います。これは決して彼が人生経験の中の不幸や苦悩だけを振り返って嘆いているのではありません。逆に成功や業績を数えて先祖に勝らないことに引け目を感じているのでもありません。苦悩や喜びの数や割合で計らない振り返り方があることを彼は述べているのです。神さまが伴われることを確認する振り返り。それこそが、それのみが祝福であると安堵する人生観なのです。だからこそ彼はファラオとの面会を祝福で始め、祝福で締め括るのです。

私たちは月末に教会総会を開催します。お互いが辿ってきた歩みを振り返り、さまざまなことを数え上げるときに、改めて神さまが常に私たちとともにおられて、私たちを祝福してくださることを確認して、それ故にお互いが確信をもって前進を続けることができますように、謙虚に、それでありながら大胆に2021年度を踏み出すことができますように、私たちの信仰が保たれますことをお祈り致します。


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