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「神の国の黄金律」マタイ福音書連講[044]

聖 書:マタイ7章12節


多くの専門家たちは5章から7章までの山上の説教は3つの区分から成り立っていると解説します。5章の冒頭1〜12節に全体のテーマ、神さまの御心は人の幸せだということ。この説教の本文は、人がその幸いを得る生き方。それが5章13節から始まって今まで学んできたところです。7章13節から締めくくりまでが3つ目の区分で、これまで耳を傾けてきたその説教に、どのように応答することが正解なのかをイエスさまは語っておられます。来週からはしばらくその部分を丁寧に学びます。


今朝はこれまで私たちが耳を傾けて参りましたメッセージの結論の部分です。そういうこともあってでしょう。英語圏の教会ではこの7章12節のことを「ゴールデン・ルール」と呼んで尊んできました。日本語ではあまり馴染みはないかもしれませんが、「黄金律」ということばで言い表されています。この聖言が「黄金」だと尊ばれているのは、それだけ教会がこの聖言に重みがあることを頷いている証詞です。「律法と預言者」が聖書全体を指しているとすれば、まさに「黄金律」と呼ばれるにふさわしい聖言でしょう。この名付け親は英国国教会の牧師だとされています。ある意味この上なく相応しいタイトルだと思いますが、他方では大変な誤解を招くタイトルだと懸念もしています。


1. 私たちを行動に駆り立てる黄金律

「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」この格言は必ずしもイエスさまがオリジナルという訳ではなさそうです。旧約聖書を解説するユダヤ教のラビのことばにも、古代インドの神話や中国の儒教、古代エジプトや古代ギリシアの哲学や思想にも見られるものだそうです。

 ただ世界各地の哲学や思想に見られるこの教えについて、多くの場合、言い回しはこうなっているそうです。「あなたがされたくないことを人にするな。」

このように言い換えれば、私たちも恐らく馴染みがあると感じるかもしれません。学校の先生から親から同じように諭されたことがある、という具合です。

しかしここがまず、イエスさまの御教えの大きな特色です。一般的にこの格言は、人にしてはならないことの基準を教えるものですが、イエスさまが「ですから」と言われた時、何をしてはならないかを指差しなさるのではなく、何をするのかを指差しなさったのです。イエスさまの黄金律は、人を行動に駆り立てるおことばなのです。それで黄金律は「何でも…しなさい」なのです。

山上の説教は常に私たちを行動に駆り立てる語り掛けでした。神の国の御教えとはまさにそのように私たちを押し出すものでした。そのためのあらゆる必要は際限なく、私たちが求め続けるだけ与えられる、と保証を頂いたのです。神の国に生きる人々の歩みは、そのように父なる神さまを見上げて際限なく大胆に、何でもしなさい、という生き方なのです。その意味でもこの聖言は黄金律と名付けられるに相応しい聖言でしょう。


2. 神さまの御心に駆り立てる黄金律

12節後半「これが律法と預言者です。」イエスさまが仰せられた聖言が「黄金律」なのはこの後半があるからです。

山上の説教はその冒頭から私たちの思いを天の御国へと向かわせる語り掛けでした。そして私たちが父なる神さまに心を傾け、信頼し、そのご慈愛と真実に浸るように招かれました。

「これが律法と預言者です。」

この聖言は取りも直さず「これが天におられるあなたがたの父、隠れたところで見ておられる神さまの御心です」という指差しです。それだからこそ私たちの先輩たちはこの聖言を「黄金律」と呼んで尊んだのです。

私たちは何でも…しなさい、と招かれ、しかも何でもするのは、人に対して、というのが要です。イエスさまがここで「人」と言われた時、何ら条件が加えられていないことは注目に値します。イエスさまは私たちが日常の歩みの中で接する人という人すべてをご覧になりながらお話になっておられるのです。私たちは神さまの御心を全ての人に対して行うように押し出されているのです。


3. 全ての人を駆り立てる黄金律

さて、人さまに何かをしたいと望むなら、まず自分がそうできるように備えなければならない、というのがこの世にあって含まれている前提です。その考え方をそのままイエスさまの御教えに当てはめると私たちははたと躊躇してしまいます。果たして私は黄金律に見合う金のような資格を持っているだろうかと。

しかし主は「人からしてもらいたいことは何でも」とまず仰せになりました。私たちが「人からしてもらいたい」と切実に思うのは、自分が何も力を持ち合わせていない存在だと絶望するときでしょう。この絶望を知っている人々にイエスさまは語り掛けておられるのです。実はこれこそ山上の説教の冒頭から語られていたことではないでしょうか。イエスさまは「心の貧しい者」「悲しむ者」に呼びかけておられました。私たちはイエスさまに謙って問い返すかもしれません。イエスさま私のどこにそんな余裕があると言われるのですか?イエスさまはこの小高い丘の上で私たちを諭されたではありませんか。心配しないで、神の国と神の義を求めなさい。求めなさい、探しなさい、叩きなさい。天の父が良いものを授けてくださらないはずがないでしょう。

イエスさまはそのような生き方に私たちを今朝もお招きになっておられます。私たちがイエスさまを信じるように招かれているのはそのためです。イエスさまの十字架によって罪が取り除かれることを信じて受け入れるように招かれているのは、この豊かな世界に私たちが浸りながら、日々の歩みを踏みゆくためです。

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