「神の国と神の義を求める」[マタイ連講40]
聖 書:マタイ6章31〜34節
前回は特に心配をする、あるいは心配をしないということと、神の国、神の義を求めるということとを結びながら聖言をお読みしました。今朝はもう少し丁寧に33節を噛み砕き、また34節に続くメッセージに耳を傾けましょう。
33節は以前「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」となっていました。神の国とその義、と読みますと「神さまの国の義」つまりその国の法律を求めなさい、という意味に取られるかもしれない、ということで翻訳が改訂されました。ルカ12:31には、「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば…」と記されていて、ルカの福音書の方は「神の義」が触れられていないのです。つまり、「神の義を求め」るというメッセージは神さまがマタイに特に与えなさった部分だということになります。
マタイの中で最初に義(正しい)が取り上げられたのは、許嫁のマリアが身ごもったことを知らされたヨセフが、何よりも彼女がさらし者になることを恐れ、秘密裏に離縁しようと思い巡らせたときでした。ヨセフは正しい人、と聖言が評価しました。神さまの義の表れの一つです。また、当時の宗教家たちがモーセの律法を機械仕掛けのように遵守する様子についてイエスさまは「パリサイ人や律法学者たちの義にまさ」る義を生きるように、と群衆や弟子たちを諭されました。彼らの機械仕掛けのような誠実さは、確かに神さまの御真実を証詞している、という意味合いが含まれていました。神さまの御真実と神さまの義とは密接に結びついています。
バプテスマのヨハネから洗礼を受けるときのことも印象に残る場面です。敬虔なヨハネにとっては納得のいかないリクエストでしたが、イエスさまは人の道理や敬虔さにまさって神さまの御前に相応しいことをするようにヨハネを招かれ、「このようにして正しいことをすべて実便すること」が宜しい、とお話になりバプテスマを受けなさいました。その結果、天が開けて、神の御霊が鳩のようにイエスさまの上に降り、神さまご自身がイエスさまのことを「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と仰せになる御声が響いたのです。聖書には私たちの模範となるような人の正しさ、義が数多く描かれていますが、私たちはいつでもイエスさまにその究極の模範を見出すのです。
イエスさまが山上の説教の冒頭で、「義に飢え渇く者は幸いです」と仰せられたのを思い起こします。正義に飢え渇く者を励ましなさり、主は今改めて「神の義を求めなさい」と語られたのです。義のために迫害される者、神の義を求める人々は昔も今も報われる。それこそイエスさまを置いて他にこの真理を生きて示した人はいないでしょう。迫害どころでなく、十字架の死にまで追いやられたイエスさまは、神の正しさを貫かれ、神さまの御心に誠実に従われ、いのちを得られました。救いの道を完成され、今神の右の座に著かれて御手のうちに神さまの全権を握っておられます。かつて荒野で断食をなさった後で、悪魔が誘惑をして、石をパンに変えて満腹を求めよと誘い、神の超人的な奇跡を起こさせよとの挑発し、挙げ句の果てには山の高みから見渡せる範囲を支配する権威を与えようとそそのかします。主イエスさまはそのどれをも求めることをなさらず、私たちと同じように聖言にお頼りになられて、退けなさいました。
そのときはパンで空腹を満たすことができず、神の特別なご加護を保証してもらうこともできず、何の権威ももたない「ナザレの町から出て来た預言者」程度の評判で収まってしまったように人の目には写ったかもしれません。しかし主は、一つのパンを食べ損ねたどころか、数千人の空腹をパンと魚で満たしなさり、なお12のかごにあまるほどの豊かさをお示しになり、御護りの確認もできずに公生涯にお入りになられたと心配する人々を他所に、主はとうとう死さえもよみがえりをもって退けなさいます。高い山の頂から見渡した世界の支配権を掴み損ねて下山をしたように思われても、エペソ書の聖言を引用するなら、「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれる」「大能の力」(エペソ1:20〜21)を御手に収めなさり、今でも私たちのためにその全てを用いておられるのです。「…すべて、それに加えて与えられます」の次元は、私たちの想像をはるかに越えた豊かさに溢れているのです。
そのイエスさまをまず見上げて求めるように、私たちは招かれています。主がバプテスマを受けられたときに、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と言われた神さまが、再び私たちに「これはわたしの愛する子。あなたはまずこれを求め、付き従い、愛さないか」と招いておられるのです。私たちは足し算と引き算の世界に馴染んでいますから、どうしても一方を最優先させると、それまで重んじていたことを手放すことに、失うことになる、とまた余計な心配します。そんな私たちに主は、これらのものはすべて、異次元の規模で加えて与えられるとお約束になられたのです。
さて、これまでイエスさまは今日のことについてお話になって来られました。けれども、イエスさまの御教えは明日へと繋がっているのです。イエスさまが言われた「明日(あす)のことは明日が心配します」には成り行きという発想は微塵もありません。今日のことを心配しなくてよい私たちは、同じ理由で明日のことまで心配しなくてよいのです。心配しないで明日を迎えるのです。明日のことは父なる神さまが、私たちが求める先から、その必要と欠けをご存知で、天の豊かさから満たしてくださるのです。明日が心配します、とは神さまが心を配ってくださいます、という保証です。日ごとの糧がその日その日十分備えられますように、苦労もまたその日その日十分に償われるのです。
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