「祈りについて(8)―臆病者の祈り?」(マタイ連講035)
聖書 マタイ6章9〜13節
丁寧に読み返しますとここには二つの祈りが含まれているので、2回に分けて学ぶこともできますが、これら二つの祈りはむしろ表裏一体のものとして読み取ることが私たちの理解の助けになると頷いております。
かつて(1800年ほど前)アレキサンドリアのクレメンスと呼ばれる教会指導者が、自信に溢れた人がこう祈った、と記録しています。
「主よ、祈ります。私にチャンスを与え、証明させてください。末恐ろしい災難が私に降りかかりますように。私はあなたに対する愛ゆえに、あらゆる危険を見下してみせます。」
凄まじい祈りだと思います。私たちもこれくらいの信仰があれば、心強いと感じるかもしれません。そんな信仰の勇者を目指して日々信仰に励んでおられる方々もおられるかもしれません。けれども主イエスは私たちが祈るときには、試みに遭わせないで、悪からお救い下さいと祈るように教えておられます。勇者どころか臆病者の祈りに聞こえるかもしれません。それでもイエスさまはそう祈るように付き従う人々を招かれたのです。
祈りの前半は、私たちが試みに会う事のないように求めるものです。試みには大きく2種類あって、一つは誘惑。荒野で40日の断食を終えられた後に主イエスが遭われたものがそれです。今一つは試練や苦難と言い換えることができるような災いだと言われています。主の十字架はまさにその最たるものだと言えるでしょう。私たちが今コロナ禍におりますのもまさにこの意味で試みだと言えます。さてここで一つ注意事項です。神さまは決して私たちを誘惑なさりません。使徒ヤコブの言う通りです(ヤコブ1:13)。「私たちを試みに遭わせないで」と祈るときに、まるで神さまが私たちを誘惑に遭わせるかのような印象を持ってはいけません。悪魔が人を誘惑するのです。
イエスさまがこの祈りを献げるように招かれたのは、私たちが試みに極めて弱いことをご存知だからです。このことはいくつかのことを意味しています。第一に私たちは試みに弱いからといって、誘惑や苦難に負けてしまっても構わないということでは断じてありません。そうではなく、私たちは天の御父に頼るように招かれているのです。イエスさまは私たちが進む先々で試みに合わないように、その都度祈るように招いておられるのです。悪から御救い下さいと祈るのは、既に私たちが災いや害悪に囚われているかもしれないからです。その中でもがき、苦しい思いをしているならば、我慢ができなくなるまで待たなければいけないのではありません。悩み出したのなら、痛み出したのなら、極端な話し、痛くなりそうならば躊躇なく「悪から御救いください」と祈って宜しいのです。神さまをすぐに頼る、心の傾きがあること、神さまに向かうのに妨げがないことが大切なのです。
この祈りを献げるように招かれている、ということは第2に私たちの信仰の理解についても改めて光を照らします。更に言えば私たちがあるいは思い違いをしているかもしれない点に光が当たる。私たちは信仰について、成長するというイメージを抱いています。それは聖書の中にも信仰の成長を連想させるような例えや表現が見出されるからでしょう。草木が大きく成長する姿、赤ん坊から成人していく姿が例えとして何度が描かれています。しかし、信仰が成長をするというときに、何がどのように変化することが期待されているのか、そこを問われると実のところ具体的に記されていない場合が多いのです。信仰の成長について私たちが思い描いていることで、必ずしもそうでないものがいくつか、今朝の祈りの中から読み取れます。もしも、私たちがお互いの信仰を、自分自身の信仰を、どれだけ試みや悪に対して立ち向かい、または退けることができるかで信仰を図っていあたとすれば、私たちはこの祈りをいつでも献げなさいと招かれるイエスさまの御思いを汲み取り損ねているかもしれません。私たちが信仰を働かせて、巧みに誘惑を回避し、試みを耐え抜き、罪や悪に対して断固として立ち向かうことができるようになることは素晴らしい祝福です。主は私たちがどれだけ多くの実を結ぶようになったのかで私たちと私たちの信仰に成績をおつけになっておられるのではありません。イエスさまがご自身に付き従う弟子たち、群衆の人々に望まれたのは、彼らがいついかなるときも父なる神さまに頼る信仰、それだけです。ゲッセマネの祈りはその最たる例です。
「わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」、「試みにあわせず、お救いください」と三度も、しかも弟子たちに一緒に祈るように求めなさいました。まさに「私を」ではなく「私たちを」と祈りたく願われたのです。
多くの実を結ぶ聖徒たちには「善かつ忠なる(良い忠実な)しもべだ」といってご自身の喜びを共に喜ぶようにお招きになります。他方、なかなか実を結ばないいちじくの木の話しも思い出します。農園の所有者はしびれを切らせても、農夫はあと一年猶予を求めます。次は実を結ぶかもしれない。私たちは実を結ぶことが許されたならば「良い忠実なしもべ」らしく次の日も「試みにあわせず、悪から御救いください」と祈るのです。実を結ぶことが赦されなかったならば、今一度信仰を奮い立たせ「試みに合わせず、悪より救い出だし給え」ともう一度祈るのです。そして天の御父が私たちの祈りにどのようにお応えになるか待ち望ませて頂きましょう。
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