「祈りについて(7)―負い目を赦し、赦される」(マタイ連講034)
聖書 マタイ6章9〜13節
この祈りは決して神さまと取引をしている祈りではありません。
この福音書を学び始めて6章まで進みましたが、すでにイエスさまの誕生の記事では、主がご自分の民をその罪からお救いになる、ということが語られ、公生涯第一声が「悔い改めなさい」でした。悔い改めと赦し。バプテスマのヨハネもまた悔い改めの実を求めました。赦しの後に続く生き方についてのメッセージ。山上の説教の中でも赦しということばではありませんが、「憐れみ深い者は幸いです」と学び、いけにえを献げることに勝って兄弟と和解をするようにと迫られました。悪に対して善で報いる生き方、迫害者の祝福を祈る信仰。これまで学んできたところを少しおさらいしただけでも「赦し」に関連する御教えと諭しに溢れています。赦し、赦されるということは一人の人としてもそうですが、一人のクリスチャンとしてなおのこと、私たちは日々の歩みの中で絶えず心に通うテーマです。
「負い目」ということばが気に留まります。負い目(ギリシア語では「オフェイレーマ」)とは借金のこと。ただ、借金を赦すという言い回しにはまだ違和感を感じます。イエスさまは時折、敢えてこのようなおことばを用いなさいました。
1負い目の意味すること
負い目とは借金のことですが、お金に限らず、持ち物や品物の貸し借りにも当てはまるし、人が誰かに対して恩義を感じていたり、義理や務めを果たしていなかったりするときにも「負い目がある」と言えます。そして聖書の中で「負い目」がある、とはその相手に対して罪がある、というところまで深掘りされます。ルカの福音書に記されているこの祈りは「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します」となっています。
イエスさまがここでわざわざ引っ掛かる言い方で「負い目をお赦しください」と教えなさったのは、私たちの罪の「負い目」という側面を意識するように、という語り掛けなのだ、と気付かされるのです。「負い目」ということばが私たちに連想させるものは何よりも、その重さ、重量です。借金であれば経済的な圧力があります。他の人に対して不正直であったり、責任を果たしていないとなれば、申し訳なさや背徳感は重いものでしょう。ダビデも詩篇の中でまるで神さまが御手で彼を押しつぶすかのような、罪悪感に苛まれたと告白しています。ダビデは生ける真実の神さまを知っている王でしたから、すぐにこの重圧感は神さまからの迫りだと気付きました。イエスさまは群衆に同じことを諭しておられるのです。天にいます私たちの父が私たちの上に御手を重くおきなさる。これが負い目の重みです。
2赦すことと負債を免除すること
ただ、この祈りの急所は負い目があるというところでおしまいではなくて、その負い目を赦すというところにあります。イエスさまは負い目の重荷を取り去ることと、罪を赦すことを重ねてお話になっておられるのです。罪を赦す、罪が赦されるということは、言い換えれば重荷が取り去られること、そして赦す側に立てば、その重荷を取り除けることに他なりません。心にのし掛かる罪悪感や後ろめたさ、まるで手足を縛られて身動きが取れなくなってしまっているような重み。ダビデの詩篇は「御手が私の上に重くのしかかる」と言い表していました。イエスさまは人々が日々の生活の中で、肌身に感じる負い目の重みからの解放、肩の荷が降りる身軽さ、重圧から自由になる喜びを思い起こさせなさり、神さまに罪を赦される素晴らしさをお示しになっておられるのです。
3「私たちも赦します」に込められた思い
さて、私たちの負い目をお赦しください、という祈りには「私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」という後半部分が付け加えられています。この祈りを献げる者は皆、すでに赦す覚悟を決めているのです。ここで祈る私たちは突然、赦される側から赦す側に立場が覆されるのです。立場が変わると景色が大きく変わります。人の負い目を取り除くことが何を意味するのかを、この祈りの後半を捧げた瞬間に私たちは思い起こすのです。軽々しく献げられる祈りではありません。私たちの天の父はすべてをよくご存知です。それでも私たちにこの祈りを献げるように招いておられるのです。
そして私たちは改めて、神さまが私たちの負い目を取り除いてくださることの意味に思い巡らせるのです。私たちはもしかすると全知全能ですべてをご自身の御手の中に収めておられる神さまが、私たちの負い目を赦してくださることは「御安い御用だ」と思い違いをしてはいないだろうか、と。誰かが負い目を赦されるとき、神さまも大きな痛手を負われたのです。実に深い痛手を負われたのです。イエスさまの十字架です。十字架の御苦しみと死がその痛みです。私たちが「負い目を御赦しください」と祈るたびに、主イエスさまの十字架の痛みが走り、私たちは本当に解放されるのです。イエスさまは山上の説教で人々が負い目を赦してくださいと祈るように招きなさり、今でも同じ祈りを献げるように、負い目を赦していただくように祈りなさいと私たちに迫っておられます。私たちはこの祈りを捧げるたびに、少しずつではありますが、負い目のある人を赦す痛みを知りながら、父なる神に赦される恵みを味わうのです。その恵みが私たちを前に推し進め、私たちに力を与え、次の負い目を赦す豊かさを満たすのです。
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