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「祈りについて(5)―御心を求める」(マタイ連講032)

聖書 マタイ福音書6章9〜13節


今朝も続けてイエスさまが弟子たちに「あなたがたはこう祈りなさい」と教えなさった聖言を学びましょう。私たちは神さまのことについて3つ続けて祈るように教えられています。第一に父なる神さまの御名が崇められること、第二に御国が来ますように、そして第三に「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」ギリシア語で読み直しますと、「みこころが行われますように。天でそうあるように、地上でも。」となっています。


 ことば数は少ない祈りですが、祈られていることは計り知れないほどの重量があります。みこころが行われることを祈るのです。この祈りは私たちが御心を行えるように求めているのではありません。私たちが神さまの御心を悟ってその通りに行動をすることができるように、洞察力や能力も備えられて見事に果たせるように、という祈りではありません。その反対で、実に受け身な祈りです。御心が、あなたのお考え、あなたのご計画が行われることを希望するのです。何故受け身なのかと言えば、神さまに「あなたのみこころ」が行われることを求めることが、取りも直さず「私の思い願い」が実現することを一先ず手放すことを意味するからです。さて、私たちが自らの思い、願いを放棄しますのは、別に私たちの計画と神さまのご計画を比べて見て、神さまのご計画の方が優れているから、という祈りではないのです。私たちの考えの方が神様よりも優れているということはあり得ないのですが、それでもこの祈りは考えや計画の優劣を計って献げられるものではありません。私たちが「あなたの御心」を求めるのは、私たちが神さまを御父として心から敬い、愛し、全幅の信頼を置いているからに他なりません。


 これは招きであると同時に、私たちへの問い掛けではないかとも感じます。私はいつでも神さまの御思い、神さまが頷かれることを何よりも望んでいるだろうか。あまり損得のない事柄、どちらを選んでも大きな影響を及ぼさない選択肢については、心置きなく神さまの御心が行われますようにと祈ることができるかもしれません。しかし事が深刻になり、自分の人生が掛かってくると、神さまの御心を退けたい訳ではないのだけれども、自分の思いや計画の通りにならない訳にはいかない、という気持ちが湧き上がるかもしれません。私たちが「あなたの御心が行われますように」と祈ることを躊躇するにも、それなりの事情や、止むに止まれぬ理由はあるかもしれません。それでもイエスさまは静かに問い掛けておられるのです。あなたが祈るとき「父よ、あなたのみこころが行われますように。」こう祈りなさい、と。


 このお招きが重くのしかかるのは、私たちが目の前のことについて真剣に、また価値高く向き合っているときです。真剣に取り組めばそうであるほど、それらの努力や準備、積み重ねが虚しく徒労に終わるのは、役に立たなかったという結末になるのは、脇に置かれてしまうのは正しいことなのだろうか、という思いが沸くのです。しかしそのようなときでも、イエスさまは「みこころが行われますように」と祈るよう迫っておられるのです。そしてこの迫りに頷いてその通りに祈ることを、主は「信仰を働かせた」と言ってこの上なく御喜びになるのです。何故ならばそのときにこそ、そう祈った者に神さまからの祝福が豊かに注がれるからです。それはその人がそれまで重ねてきた努力や労力をカケラも無駄にしない祝福です。その人が大切にしてきた全てを蔑むような祝福ではありません。その人が注いできた愛情や誠意の全てを掬い上げる祝福です。ですから「みこころが行われるように」祈るよう、招いてくださっているのです。


 このような葛藤の中でこの祈りが献げられた例を二つほど取り上げて見ましょう。一つはイエスさまの弟子たち、特に元々漁師だった弟子たちの間で起きた出来事。夜通し網を下ろしても不漁だったペテロに、イエスさまが網を下ろすように言われたとき、ペテロは「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と返答し、イエスさまに対する信頼と敬愛から網を下ろしたのです。その結果ペテロの網は破れるほどに魚で溢れ、そばにいた仲間にも舟を出してもらって、引き上げたところ二艘(そう)とも沈みそうになります。彼ら漁師たちは皆イエスの弟子となる決意をし、文字通り人生を左右するような祝福を受けたのです。


 さて、もう一つの例はイエスさまご自身のゲッセマネでの祈りです。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」その結末、主は捕らえられ、最後には十字架に釘付けられ、死に渡されたのです。ペテロの時とは随分違います。これまでの全てが無に帰したように見受けられます。けれどもその実、神さまのみこころが行われていたことが次第に分かってきます。全ての人の救いとなる道が敷かれ、扉が大きく開かれたのです。「あなたのみこころが行われた」のです。


 私たちの日々の歩みはこの祈りの繰り返しなのです。どのようなことでも「あなたのみこころが行われますように」と祈って踏み出すのです。全力を投じ、精一杯生きるのです。その顛末が人の目にどう映るかは二の次です。神さまのみこころが行われるときに、ものごとがどのように転じようと、計り知れない祝福と御報酬が備えられています。



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