「祈りについて(4)―あなたの御国の到来」[マタイ連講031]
聖書:マタイ6章9〜13節
「御名が聖なるものとされますように」、「御国が来ますように」、「みこころが…行われますように」、これら3つの祈りは共通して尊敬を表す「御」の字から始まっています。どれも神さまに関わる事柄だからです。実はもともとのギリシア語では「あなたの名前」、「あなたの国」、「あなたのこころ」となっています。意味がおおよそ同じですが、私たちの受ける印象が違ってしまいますと、イエスさまの御思いの真相まで届かないかもしれません。私たちがこの祈りを献げますときに、「父よ、あなたの国が来ますように」と祈るようにイエスさまは招いておられるのです。もっと言いますと「父よ、あなたが治めてくださる国が到来しますように」という祈りです。聖書の世界で「国」というとき、それは「王国」を意味しています。一人の王さまがその国全体を治める形の国家です。この場合、その国がどのような国になるのかは、王さまに掛かっています。このみことばを耳にした人々はその意味するところを明確に弁えたのです。私の暮らす町を治め、私の家族の生活を見守り、私たちの治安や経済や、文化や教育を舵取りする王は、私たちが父よとお呼びする神さまをおいて他にはいない、と認めるように迫られているのです。「御国が(あなたの国が)来ますように」という祈りに込められたイエスさまの御心に耳を傾けましょう。
1神の国/天の御国というイメージ
当時の聴衆が「国」と聞けば自動的に王国を想像することは今学んだ通りです。あなたの王国がきますように、という祈り。その場合、人々が注目するのは外でもない王さまがどういう人かということです。
イエスさまは既に、私たちが仰ぎ見る王さまのことを「父よ」とお呼びするように招かれました。そしてどのような父をイメージするのかを教え始めておられます。私たちの善意、私たちの善良を形作る雛形が私たちの父である神さま(マタイ5:16)。悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるお方(5:45)、だれも見えない、何も見えないところで祈るときにさえご覧になり、報いてくださる方、これから先も様々な御父の姿を見せて頂きます。その都度この祈りを思い起こすことが幸いです。「御国が来ますように。父よ、あなたの王国が到来しますように。」さらに言えば神さまが御父であられる、とは聖書が私たちに明かす神さまのお姿の一面でしかありません。私たちは、聖書の中に神さまのお姿を見出すたびに、「あなたの王国が来ますように」と祈るように招かれているのです。王であられる神さまがお出でになることを心待ちにするように諭されているのです。
2「国が来る」という不思議な祈り
さて、私たちは毎週のようにして「御国の来らんことを」と祈りますから、あまり違和感を覚えないかもしれませんが、イエスさまが群衆に向けてこのお祈りのことばを授けなさったとき、聞き入っていた人々は少なからず不自然さを覚えたはずだ、と専門家たちは教えてくれます。そしてそれだけにこの聖言は彼らの印象に深く残ったはずだと言われています。当時のユダヤ教の教えの中で、神の御国がやってくる、という発想は全くなかったというのです。しかしこれはイエスさまが福音を告げ知らせ始めなさったときから一貫して語られているメッセージです。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
神の国が近づいた、神の国がやってくるとは、つまり王さまが私たちのところにやってくるということ。そんな王さまは前代未聞です。王さまは宮殿の玉座にしっかりと腰を据えています。しかし私たちの神さまは、私たちの街にお出でになる方、私たちが日々歩く道を共に歩まれる方、私たちの家の戸を外から叩いて招き入れられるのをお待ちになる方なのです。御国が来ますように、との祈りには王である神さまをお迎えする思いが込められているのです。
3悔い改めから始まる御国の支配
さて、神さまの御国が到来しますときに、天の御国が近づいてきますときに、私たちが思い起こさなければならないのが、先ほどおさらいしましたイエスさまのお言葉です。福音を告げ知らせ始めてから一貫して語られて来たこと、
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
イエスさまの福音の中核で、御国の到来、神さまが王としてお出でになられることと、私たちが悔い改めることとは直結していたことを私たちは思い出さなければなりません。悔い改めとは神の御国への第一の備えです。私たちは父なる神さまに「あなたの国が、あなたが治めてくださる御国が到来しますように」と祈り待ち望んでいるのです。ですから、私たちは王座を空けるのです。これまで私たちを支配していた王と、王たちと決別することです。彼らの絶大な力も然ることながら、生活の隅々に染み込んでしまっている全て。たといある日突然皇帝がいなくなったからと言って、全てが次の日からガラッと変わるかといえばそんな簡単な話ではないことを彼らは日々感じながら、それでも神さまが約束しておられるメシアなる王を待ち望んでいたのです。この祈りは私たち祈るお互いに「悔い改め」を迫るのです。悔いるとは、王座を明け渡すこと、宮殿を空にすること。改めるとは、祈りに応えて御出でになる王さまを、父なる神さまを喜びと期待を持って迎え入れることです。私たちの心は変えられ、私たちの生活が変わり、私たちの身の回りが変わり、世界が変えられていく。やがて、イエスさまは神さまが御定めになったときに再びお出でになり、本当の意味で私たちの世界を治めてくださることになります。
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