top of page

「祈りについて (3):御名が聖なるものとされるため」[マタイ連講030]

聖書:マタイ6章9〜13節


今朝からいよいよ祈りの本文、最初の祈りの項目に入ります。「御名が聖なるものとされますように。」私たちが献げる主の祈りや、文語訳聖書では「御名の崇められんことを」とされているところです。

これは私たちの内側から込み上げて来る祈り、というよりは、教えて頂かないと祈ることができない種類の祈りではないでしょうか。何でも祈りなさいとお招き頂いて、私たちはまず何を祈るだろうか。福音書を読み進めましても、イエスさまの下に駆け寄って「神さまの御名が崇められますように」と求めた人はあまり例を見ません。それはイエスさまの時代も、今の時代もあまり変わらないと思うのです。自発的に湧き上がる祈りというよりは教えて頂いて覚える祈り、そうであるとするならば、殊更に注意深く、謙虚になってこの祈りを学ばなければいけないのだろう、と襟を正す思いです。


「御名が聖なるものとされますように」この祈りは実のところ、古くからユダヤ人の間では馴染みのある表現だったと言われています。旧約聖書にさかのぼりますと、いくつか手掛かりとなる聖言を見出します。古くはモーセの書にこのようなおことばが記されています。

「わたしの聖なる名を汚してはならない」(レビ22:32)

「彼が…わたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし」(イザヤ29:23)「わたしは…わたしの大いなる名が、聖であることを示す」(エゼキエル36:23)

これら旧約聖書の聖言から「聖なるものとされる」とは、ただ単にきれいにされる、「おきよめをする」というイメージとは程遠い、ということが読み取れます。聖書の中で「聖なるものとする、される」というおことばは「特別に取り分けられる、選り分けられる」という意味なのです。御名が聖なるものとされますように、とは神さまのお名前が本来の御目的のためだけに響き渡り、それ故に崇められますように、という祈りです。そのときにこそ人々は本当の意味で幸いを得る、喜びを得る、平安や希望を得るのです。私たちの世界は今、これまでになかったほど、希望を必要としています。平安を求めています。イエスさまはまず、御名が聖なるものとなるように祈りなさい、と私たちをも招いておられます。


この祈りは、神さまの御名が聖なるものとなるために、私たちが務めを果たせますように、というものではないことは注目に値します。神さまの御名が本当の意味で人々の前に明らかにされ、そのことで人々が心から神さまの素晴らしさを知らされて、この神さまに救いを求め、希望を抱き、喜びを味わうように人々の心を溶かし、眼を開くみわざは神さまご自身のみわざなのです。私たちはその目撃者、そして証人なのです。


この祈りから主イエスさまのご覧になっておられる世界を垣間見ることが許されたならば幸いです。二つの現実を主イエスはご覧になっておられます。第一に、神さまの御名が聖なるものとされていない現実をイエスさまはご覧になっておられるのです。神さまの御名に人々の関心が向いていない現実に御心を痛めておられるイエスさまのおことばです。それだからこそ、祈りの第一の項目は「御名が聖なるものとされますように」となる他なかったのです。今日も自然界は神さまがお造りになられた通りに動いています。けれども御創りになられた神さまの御名を讃える声が上がらないのです。今日も一日、神さまが支えてくださって無事に過ごすことが許されました。1日を閉ざす時に神さまを賛美する声が家々から鳴り響くのだろうか。イエスさまは山の上からあたり一帯を見渡しなさり、「御名が聖なるものとされますように」一緒に祈ろうと弟子たちを、つき従う人々をお招きになられたのです。


「汝が嗣業(ゆずり)の国は疲れ、汝が御民も塵にぞ伏す

 暗きは栄え御名は汚さる主よこれらを見たまえ今。

 天を裂きて降り山々を震い動かし萬の民に知らしめよ汝れの神なるを」(インマヌエル讃美歌290)


ユダヤ人も「御名が汚される」ことに勝る不幸はない、と考えていました。しかし最も敬虔なユダヤ人にまさって、御子イエスさまは「父よ」と仰ぎながら、弟子たちとともに、つき従うすべての人々を招き入れて、「御名が聖なるものとされますように」祈り求めるように教えてくださったのです。この祈りは今も有効です。今こそ求められる祈りです。私たちが生を受けた時代にあって、私たちが生かされる持ち場立場にあって御名が聖なるものとされるように、神さまのみわざを待ち望み、仰ぎ見る信仰を保とうではありませんか。


主イエスがご覧になっている今一つの現実、それは神さまの御名についてです。私たちの文化では「名は体を表す」とよく言いまが、ユダヤ文化の間でも然り、そして聖書の世界とその全てを治めなさる神さまも名前を重んじなさる。のみならず、神さまはご自身のお名前を進んで明かしなさるお方です。そのことは旧約聖書の中で示され、主イエスのご生涯をとおしても明らかにされています。私たちは今、神さまを父よとお呼びするように招かれています。そして私たちは、神ご自身が天にいます私たちの父としての素晴らしさを存分に表してくださるように待ち望むのです。

イエスさまもゲッセマネの祈りを御献げになる直前、最期の晩餐の場面で弟子たちのために祈られました。ゲッセマネで御心を注ぎ出して杯が取り去られることを望まれたその前に、ご自身の生涯をとおして神さまの御名が聖なるものとされたことをご確認なさったのです。主の祈りの最初の祈りを、主ご自身が献げておられる。私たちも主のお招きに信仰をもって応答しましょう。


👈教会の庭先に咲いたコスモスも講壇に...

Comments


Featured Posts
Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
  • Google Classic
bottom of page