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「眠りを捨てて主イエスに従う」マタイ連講 [053](配信)

聖 書:マタイ8章18〜22節


今朝の段落はイエスさまについて来た人々の間で献身の問題についての問い掛けと迫りがなされています。これまで私たちは群衆と弟子たちとの間にあまり区別をつけずに読んで参りましたが、ここからは弟子となることへの意識が深まります。この福音書のテーマの一つが「弟子道」だと言われているとおりです。イエスさまは群衆が自分の周りにいるのをご覧になって、弟子たちに声をお掛けになります。この先弟子とは何かについて問われることになります。

イエスさまは彼らに向こう岸に出掛けるように指示を出しなさいます。ここでイエスさまは群衆と別れて、この先は漁船に乗れる数名の弟子たちと旅を続ける、ということなのです。ところがそんな中、私もその船に乗ってさらにつき従いたい、弟子となりたいと申し出る人が群衆から抜き出てきます。


1人目は律法学者でした。律法学者と言えば当時ユダヤ人の間では聖書を専門的に教える人々でした。ユダヤ人の間では尊敬され、人々からは「先生」と呼ばれる。そのような彼がイエスさまのもとに来て「先生」と呼び掛け、「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と申し出たのです。これは間違いなく素晴らしい決意です。その彼にイエスさまはご自身について行くということが何を意味しているのか、明かされます。この律法学者はもとより、この福音書を通して「わたしもついて行きます」と心に定める私たちも弟子となるということが何を意味しているのか、イエスさまは説き明かして下さいます。

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」

福音書で狐といえば、エルサレムに宮殿を構え、イエスさまのいのちを付け狙うヘロデ王のことをイエスさまが「あの狐」と揶揄なさっている場面があります。枕を高くしながら狡猾にも悪事を働く人のイメージでしょうか。「空の鳥」にはもう少し前向きなイメージがあります。自分で労働することさえしない鳥でも私たちの天の父なる神さまは養って下さり、帰る巣がある。詩篇の中には神殿の中に巣を作る雀や燕のことが歌われていました。動物の世界を見渡せば、それぞれに寝床がある。いわんや人であれば悪者でも、弱い者でも安らぐところを持っているのです。ところが「人の子には」と仰せになられるのです。動物や鳥でさえ寝ぐらがあるのだから、当然ながら人であれば誰であれ安らぐ場所、暖かく迎え入れられるところはあるはずだ。ところが人の子であるわたしには「枕するところもありません」、という強烈なメッセージです。

イエスさまはご自身がホームレスなのだと言っておられる訳ではありません。イエスさまの弟子になるということは、出家した宗教家のところに弟子入りをすることになるということではありません。そうではなく、世にあっては歓迎をされない師に従うということを弁え知っておくようにと諭しておられるのです。イエスさまの弟子となる、ということはイエスさまが受けなさる拒絶や非難に、あなたも晒されることなのです。主イエスの弟子たちにとっては深く頷ける慰めのお言葉ではなかったかと思うのです。この世はあなたではなく、あなたがつき従うあなたの師を拒んでいる。弟子は、枕するところを求めて辺りを見回さなくともよいのです。枕するところのない「人の子」にしっかり目を向けてどこにでもついて行くことが幸いなのです。


それからもう一人、ひとりの弟子が乗船をするイエスさまに申し出ます。彼は、どこにでも主イエスについて行く人生に踏み入る前に「父を葬ること」を許可して頂きたいと申し出るのです。それに対してイエスさまは「わたしに従ってきなさい」とお返事なさいます。ユダヤ人は皆モーセの十戒を何よりも重んじていましたから、「あなたの父と母を敬え」を軽んじる人は誰一人としていません。その父が亡くなって埋葬をするというときに、それを怠って他のことをするなど、イエスさまも含めてまずあり得ないことです。おそらくこの弟子の父親はまだ健在で、彼はその父の目が黒いうちは弟子として主に従わず、父と最後まで暮らして、死を見届けてから従いたいと申し出たのです。イエスさまはこの弟子を言葉いっぱいに励まして「わたしに従って来なさい」とお招きになりました。

死人たちに死人たちを葬らせよ、とは比喩表現です。「死人」に例えられる誰かを指しておられるのです。この弟子は、その中に含まれていません。さらに言えば、この弟子のお父さんは少なくとも「彼ら自身の死人」とは関係がありません。主イエスさまは弟子となることを心に定めた人を、お見捨てにはならず、いつでも「わたしに従ってきなさい」と招き続けなさるのです。人の死を待つ生き方ではなく、いのちを与える福音に生きるように。死人とみなされ、死に囚われている人々の中に巻き込まれてしまわないように、主は弟子たちを導かれるのです。聖書の中で死者に例えられる人々は、しばしば罪に囚われ、罪の咎に押しつぶされている人々です。主の弟子たちはもはや彼らの中に巻き込まれてはならないのです。イエスさまにひたすら従って歩む道が備えられています。死者に例えられる人々もまた決して見捨てられてはいません。主イエスはまさに彼らのために立ち上がられ、十字架に向かわれました。実にご自身の死をもって「死人」とみなされた人々にいのちを与えなさったのです。


23節は次の段落に入りますが、私たちに希望を抱かせる姿が描かれています。「それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。」マタイは敢えてこの弟子たちが誰であるのか特定していません。問われていますのは、その舟に私は乗るのか、という問いかけです。主イエスさまは今朝も私たちに御声を掛けておられます。「わたしに従ってきなさい」と。この世の枕と安寧を離れて、死の眠りに囚われることなく、イエスさまに従うお互いでありましょう。

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