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「痛みの中で神は」棕櫚の聖日礼拝 マタイ連講[0004]

マタイ2章13〜23節

受難週の出来事は、一つ一つその中で主イエスさまがお苦しみをどのように受け止めなさり、向き合いなさり、やがて勝利されたのかを私たちに力強く説き明かします。今朝お読みしました場面は同じように主イエスさまのいのちを亡きものとするために生み出された危機であり、苦難です。「むせび泣きと嘆きが」聞こえ、子どもを失った母親たちが慰められることを拒むほどに深い悲しみをもたらす苦難です。これほど悲惨な痛みと悲しみの場面はあまりイスラエルの歴史の中にはありません。この事態はひとえにヘロデの邪心から生じた災いです。平気で幼子たちをその母たちから奪って殺戮を繰り広げることができてしまうのが罪の力です。「何とヘロデは罪深く、末恐ろしい男だろうか」と非難轟々とことばを浴びせるかもしれません。しかし福音書を読み進めますと、これは2000年前に存在した猟奇的な支配者に限ったことではなくて、私のうちにある恐ろしい力で、しかも私はその罪を忌み嫌っているのかと言えば、密かに好き好んでいることに気付かされます。

さて、ここに描かれていますメッセージはイエスさまがこの禍いにどう向き合われたかということではありません。イエスさまは母に抱かれなければならないほどの非力な幼子です。ここに描かれていますのはそのような幼子イエスさまとマリヤとヨセフを、神さまが如何にしてお守りになられたのか、という物語です。神さまが、ご自身のものをどのように守られ、愛されるのかを明かすエピソードなのです。

主の使いは間もなく再びヨセフに現れます。そしてヘロデの企てについて知らせて、エジプトに逃げるように、神さまはお導きになります。ヨセフは以前と同じように夢から覚めるとすぐに、今回は夜のうちであったにも関わらず、神さまのお導きに従い、マリヤと幼子イエスさまを連れてエジプトに下ります。神さまの懇ろな、そして確かなお導きに腰軽く従う恵みを私たちは読み取ることができます。やがてヘロデは死に、ヨセフはヘロデの実子アルケラオの影響下にあるエルサレム周辺に戻ることを避けて、アンティパスが治めるガリラヤの辺りに居を構えることにします。誰にも知られていない密かな、そして安全な場所に神さまは導いてくださったのです。

さて、この段落を拝読して私たちはまたしても繰り返し旧約聖書の聖言が結び付けられていることに気付かされます。エジプトに避難したのは預言者ホセアのことばが実現を見たことと見なせる。ヘロデの邪悪な命令についてさえ預言者エレミヤをとおして語られた預言が思い起こされる。18節に引用された預言は、エルサレムがバビロンによって占拠され、ユダヤ人が根こそぎバビロニアに移住を強いられ、イスラエルの子らはエルサレムからもぬけの殻になってしまった寂しさを、子どもを失った母親の悲しみに例えて歌った預言です。ラケルの例えは、子の誕生と引き換えに母が出産の苦しみと痛みに耐えられず絶命する、その産婦の痛みが謳われています。それから最後に家族がナザレに移り住んだことについても、マタイはわざわざもう1節加えて、これもまた預言者たちをとおして「ナザレ人と呼ばれる」という預言が成就することと結びつけています。これらの引用は、神さまの懇ろで的確なご加護と御導きは、幼子イエスさまが特別なお方なので施された「特別待遇」ではなく、イスラエルの歴史を振り返るならば、神さまはこれまでも繰り返し、私たちの父祖に対して懇ろに、そして確かな御助けを注いで来られたことを想起させるのです。

幼子イエスさまが晒された危険や恐れ、災いや痛みもまた古くから神の民を覆い包んできたけれども、それとともに、いやそれ以上に神さまの御助けがいつでも間に合って余りあったではないですか、という気付きを私たちに促しているのです。私たちがまた危険に晒され、苦しみや恐れ、不安や悲しみの中に晒されるとしても、それが自然発生的なものであっても人災であっても、自分のせいであったとしても、巻き込まれたものであったとしても、神さまはこれまでのように、幼子イエスさまとその両親を守られたように、またしても私たちを導き、聖言によって裏付け、私たちを守ってくださる。そのことを期待し、確信して前に進もうではありませんか。マタイは幼子イエスさまの逃避行を記録して私たちに伝えるのです。

受難週を迎えます。この一週間のイエスさまは苦しみや痛みから一切逃れることはありません。しかしそれは断じて何かの懲罰ではありません。まして幼子の時には溢れていた神さまの愛が冷めてしまって、逃れることが許されなかったのでもありません。イエスさまのご受難は、言わば私たちの逃避行なのです。私たちが本来ならば罪のため、悪と汚れのために受けるはずであった懲罰の痛みや苦しみ、辱めや不名誉から一切逃れるために神さまが備えてくださった逃れの道だったのです。まさに「ご自分の民をその罪からお救いになる」方の備えてくださった道です。そのことを覚え、感謝して受難週を過ごそうではありませんか。

エジプトに逃れ、ナザレに移り住まわれた主イエスは次の章からいよいよみわざを開始されます。ようやくイエスさまの第一声を私たちは耳に致します。主イエスは、守られたそのいのちの限りをもって神さまの尊いみわざを果たされます。私たちもまた罪の呪縛から逃れ、懲罰から救い出されたのですから、この時代に私たちに託された神さまのみわざに専心取り組ませて頂こうではありませんか。



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