「病を癒し、罪を赦す方」父の日礼拝_マタイ連講[056]
マタイ福音書9章1〜8節
イエスさまはカペナウムにお戻りになりました。再び中風の人が他の人々に床に寝たまま連れて来られます。この出来事は他の福音書にも記録されていて、中風の人を連れてきたお友だち四人は、家の中でお話をしておられるイエスさまに、人だかりがひどくてどうしても近づくことができず、その家の屋根に上り、穴を開けて、上からこの男を吊り下げたのです。しかしこれほど印象的な場面をマタイはすっかり割愛しています。それは一番注目をしなければならないところに私たち読者が集中できるためだ、と考えることができます。
そこまでして、イエスさまだけに注目が行くように記録されているのは、イエスさまについて、一つ深い次元でご自身が救い主であられることを明かしなさったからだと言えます。イエスさまは人々を様々な災いから救い出してくださるお方ですが、今朝の記事を通して主は人の罪を赦す権威をお持ちであられることが知らされます。
1主イエスに頼る信仰
ことの始まりは人々がイエスさまに対して信仰を抱いていたこと、その信仰をイエスさまはご覧になったのです。これはイエスさまのところに連れてきなさいという途方もないお招きです。「床に寝かせたまま」みもとに運んでくるように。これがイエスさまのご覧になった人々の信仰なのです。イエスさまは人々の信仰をご覧になってすぐさま、この中風の人に全てを注がれたのです。これは私たちへの大胆なお招きです。問題や課題、悩みでもう落ち着いて祈ったりできる気持ちではないかもしれません。絶望や悲しみでとてもこれが良い方向に向かうなんて考えられません。信じられません。そのままでイエスさまのみもとに来なさい。イエスさまは、ご自身のもとに期待と信頼を抱いて救いを必要とする人を運ぶ人々の思いに、救いを求める自ら主イエスにすがって近づくその思いに「信仰」をご覧になり、向き合ってくださるのです。
2主イエスが賜る罪の赦し
さて、イエスさまは運ばれてきた中風の男に「あなたの罪は赦された」と宣言なさったのです。イエスさまの語り掛けはこの上なく慈愛に溢れたものでした。「子よ。しっかりしなさい。」躊躇なく慈しみを持って近づかれるイエスさまも十分驚きではありますが、何よりも驚きなのは、イエスさまが彼に「あなたの罪は赦された」と告げなさったことです。今朝私たちが注目を致しますのは、イエスさまのこのお言葉です。もちろん、この出来事の中で鍵となっていますから、注目をするのは当然ですが、それ以上に、このおことばは今日も私たちを救う鍵となっているので、注目しなければなりません。
このおことばには軽々しく口にすることのできない独自の重みがあります。この場面に居合わせた誰しもが弁えていました。罪の赦しを告げることは神さまの権威をもってしか許されないおことばだからです。現場に居合わせた宗教家たちがすぐに反応を示しました。この聖言には神さまの権威が伴います。イエスさまはその権威について指摘をお受けになられたとき、前言撤回をなさらず、むしろご自身を指差しなさりながら、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」とまで言われて、この出来事の意義を明らかにされたのです。神さまの権威をもって中風の男はもはや罪から解き放たれ、それと同時にイエスさまは、神の権威によってのみ実現する「罪の赦し」が今や地上で、私たちの日常の中で、私たちの身に実現することを宣言されたのです。私たちが床に寝たまま、イエスさまのもとに来て仰ぎますときに、イエスさまは私たちに告げなさるのです。「あなたの罪は赦された」。
3赦しを受け入れる信仰
告げられた私たちはどうすれば良いのでしょう。その宣告を受け入れるのです。受け取るとは、告げられた通りに生きることです。「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい。」そう告げられて、中風の男はその通りにしたのです。彼は起き上がったのです。そして家に帰ったのです。「罪は赦された」そう告げられたならば、その通りだと受け入れて罪が赦された者らしく歩み始めるのです。彼と同じように家に帰って日常に戻ります。けれども今や彼は自分の足で立ち上がり、起き上がり、自分の手足で人生を歩み出したのです。罪を赦された私たちは、もはや罪責や咎めから解放されて、心と良心に自由を与えられて本当の意味で生き生きと歩みを始めるのです。いのちの源であられる神さまと結びついて、力を頂きながら歩むのです。癒された男を目の当たりにした群衆は、震え上がる恐れを抱き、しかし彼らは神さまを崇めた。神さまの素晴らしさを目の当たりにした、と言ってこの出来事を受け止めたのです。
4広がる赦しの共同体
その最後の聖言が意味深い。「このような権威を人に[人々に]お与えになった神を崇めた。」イエスさまの権威は確かに独自のものですが、赦された私たちには、赦される喜びと赦しを告げることばが与えられたのです。私たちの信仰共同体は「あなたの罪は赦されました」と権威を持って告げられたお互いの、赦しの共同体なのです。マタイを通して神さまは私たちに、赦しを告げることばをお与えになったのだ、と語っておられるのです。赦しを告げることは決して容易いことではありませんし、その赦しのことばを受け入れることも等しく容易なことではないでしょう。それでも神さまの恵みに裏付けられた赦しのことばが告げられるときに、カペナウムで表された神さまの栄光が私たちの眼前でも証詞される、そう期待して新しい一週を踏み出そうではありませんか。
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