「申し開きのできない悔い改め」[創世記連講66]
聖書:創世記44章14〜34節
飢饉や食糧難は表面的な問題で、ヨセフの兄らの心と思いを煩わしている本当の問題は彼らのうちから湧き出る邪悪です。イエスさまもあるとき人々に諭しなさったことがあります。人の外側から入ってくるものが本当の意味で人を汚すのではない、と。人の内側から出て来るもの、それが人を汚す(マルコ7:18〜23)。そして人は汚されるときに、本当の意味で苦しむのです。
父や弟ベニヤミンの安否を知りたくて、そして彼らに会いたくて銀貨や銀の杯を使って細工を重ねるヨセフを余所に、兄たちは追い詰められていきます。大臣の前に連れ戻されて、今回はユダが代表するように自分たちの咎を告白します。そしてその咎がどれだけ重いものであるのかを訴えます。その詳しい告白と訴えが18節からこの章の締め括りまで丁寧に記録されています。『よどみなく熱意と麗しさを備えたことば』、『旧約聖書の中で最も尊厳があり、訴えかける雄弁さに溢れたことば』だと旧約聖書の専門家たちが高く評価している段落でもあります。
ユダは大臣に対してこの上なく謙虚です。彼が何よりも心に掛けているのは実家でベニヤミンの帰りを待ち望んでいる父ヤコブのことです。かつてのユダからは想像できない姿です。ただ、一見するとユダと兄弟たちはかつてと比べて著しく成長し、立派になったように読み取れますが、この物語は兄たちの成長記録でまとめられるものではありません。このユダの雄弁と麗しさの極みとも称えられることばの本質は、その冒頭16節に力強く語られています。
「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。」彼は自分に正義がないことを認め、自分の奥底にある邪悪を認めたのです。
イエスさまと出会った人々の中にも同じように光を当てられて咎めを暴かれた人々がおりました。私はザアカイのエピソードを思い起こします。私がイエスさまを信じるきっかけとなった出来事です。人々から税金を取り立てて、しかも不正に多く取り立てるために人々からも厭われてしまったザアカイ。ところがある日彼が住むエリコの町を主イエスさまと弟子たちが通過するという話を聞きつけ、ひと目見ようと木に登って高みの見物をするつもりでいたと言う話です。ところが主イエスはその木のふもとで立ち止まり、木の上のザアカイをお呼びになり、彼の家に泊まると言われたのです。ザアカイは言うまでもなく大喜びをしてイエスさまを家にお迎えしたのです。もちろんご馳走でもてなしたに違いありません。そこでどのような会話が交わされたのか、どのようなお交わりがあったのかは明らかにされていませんが、やがてザアカイもまた主イエスさまによって咎めを露わにされたのです。何もイエスさまに言えなくなり、何の申し開きもできなくなり、何と言って弁解することもできなくなって、彼はとうとう告白するのです。
「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
そのザアカイに主イエスさまはこのように仰せになって祝福されます。
「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
ザアカイも、今朝お読みしたユダとその兄弟たちもまさしくアブラハムの子、神さまに愛される一族の一人。そこに救いが訪れたのです。ユダとその兄弟たちにもザアカイが手にした救いが訪れるのです。
心の咎めを暴かれたダビデ王も、罪を取り除かれてきよくなり、雪よりも白くなる経験をします。そして終わりには「私の舌は、あなたの義を高らかに歌います」「私の口は、あなたの誉れを告げ知らせます」といって喜びを歌い上げるのです。赦しと救いを得たのです。ダビデはこの経験を振り返り、このように告白します。
「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれを蔑まれません。」
ユダと兄弟たちの打たれ、砕かれた心、申し開きの出来ない哀れな姿、それは決して彼らを辱め、貶めて、ヨセフの恨みつらみを晴らすものではありません。神さまからの断罪でもありません。神さまは決してそのような彼らの姿を蔑まれず、むしろ慈しみと恵みの豊かさを持って受け止めてくださいます。ダビデの時代には動物のいけにえを献げて、その赦しと救いを確信したのですが、イエスさまの十字架とよみがえり以来、私たちは全ての者が例外なく神さまの赦しと救いに招かれていることを知らされているのです。罪の咎めに打ちのめされて、謙って告白するならば、そこに確かな救いがあります。その救いをご自分の経験とされますように、この朝も心からお招き致します。
そして先に救いの恵みに与りましたお互い、その喜びの中に留まり、一人でも多くの方々に福音をお知らせすることができますよう、励まし合い、祈り会おうではありませんか。今月は教団で定められた宣教聖日を含む月でもありますし、月末からはいよいよアドベント、救い主の訪れを大々的に人々にお伝えするクリスマス節季を迎えようとしています。心を備えて歩みを進めようではありませんか。
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